
歌舞伎町の夜。 壊れたまま生きる四人が出会ってしまった。 予想外にはじまった関係だった。 でも、それが俺らの世界を変えた。 それが、俺らの精一杯の逃避先だった。 1+1+1+1=1⁴ 『歌舞伎町耽溺ポリ』前日譚 俺たち四人が、 “当たり前に狂ってて、最高の日々”へ 辿り着くまで。
⚠️ R15
性描写・暴力描写・薬物描写を含みます。 精神的に不安定な表現があります。
歌舞伎町青宵ポリ
第1話 負けの夜に拾った名前
薄暗いゲームセンターの片隅。
誰も見向きもしない場所のベンチに、ぐったりと凭れている女が一人。
黒レースのミニドレスにはお構いなしに、白い脚が投げ出されている。
UFOキャッチャーの淡い光が、女の長い黒髪を妖しく照らしていた。
足元にはストゼロの空き缶が三つ。
ストローが挿されたまま、転がっている。
そこに、苛立った様子で現れたのはレンだった。
金髪の根本は黒く、黒のベロア生地のジャージセットアップがガラの悪い雰囲気を放っている。
レンは女の前で足を止めた。
一瞬、獲物を見た獣みたいに息を詰める。
──簡単に抱ける。誰も見てない。
UFOキャッチャーの電子音が、静寂をかえって際立たせていた。
一瞬だけ、そんな考えがよぎる。
けれど、目の前の女の頬は真っ赤で、瞳は虚ろだった。
ベロベロに酔っている。
レンはその顔を見ながら、今日の大敗を思い出した。
パチスロで今日も五万負け。
一週間で三十万。
プッシャーの稼ぎは悪くない。
なのに、全部溶かしてしまう。
──こいつも、同じくらい負けてる顔してるな。
レンは近づき、そっと声をかけた。
「……おい、帰れんのか?」
女がゆっくり顔を上げる。
大きな黒い瞳が、レンの金髪を捉えた。
ふっと笑った顔は、意外なくらいあどけない。
「……ねぇ、もうやなの……壊して……?」
甘く掠れた、囁くような声。
よろよろと立ち上がり、レンの腕に絡みつく。
酒と甘い香水の匂いが混ざり、吐息が首筋を湿らせた。
「ホテル……行こ? ……寒いの……」
彼女の瞳は虚ろなのに、妙に澄んでいた。
レンは、自分が「加害者」になるはずだったことも、さらに妙な情けをかけたことも、急に馬鹿らしくなった。
レンは腕を払い、踵を返そうとする。
けれど再び腕を引かれ、女の唇が近づいてきた瞬間、抵抗できなくなった。
唇が、軽く触れてくる。
一度。
二度。
逃げようと思えば、いくらでも逃げられた。
なのに、体が動かなかった。
自分の方が、引きずり込まれている気がした。
彼女は必死にレンの腕の下へ自身の手をまわし、美しい顔を首筋へ擦り寄せてくる。
脳内に直接クるような、いい香りが鼻を抜けた。
求めていたドーパミンが、一気に弾ける。
視界が揺れて、気が遠くなる。
レンが背中に手をまわすと、彼女は身体をびくりと震わせ、「ん……」と甘い息を漏らした。
その反応に誘われるみたいに、レンの手は下へ這っていく。
柔らかく丸みのある尻に触れた瞬間、彼女は欲しがるように腰を突き出した。
求められるまま、レンは強く掴む。
「あッ……」
二人は監視カメラの死角へ消えていった。
ラブホテルの扉が強く閉まる。
レンはベッドへ叩きつけるように彼女を押し倒した。
互いに服を脱ぎ散らかし、欲望のまま夢中で溶けあう。
「ねぇ、名前……教えて……お願い……んっ……」
レンは応えなかった。
「……名前呼びたいの……そうしないと消えちゃう……」
「……」
レンは、かき消すみたいに激しく責め立てる。
腰を動かすたび、蜜の音と高く甘い喘ぎが部屋に響いた。
ネオンの赤い光が、汗に濡れた肌を妖しく照らしている。
「やッ……」
彼女の口が、なにかを言いかけて止まる。
「レン……くん……」
レンは息を飲んだ。
名前は教えていないはずだった。
「レンくん……もっと、壊して……ぇ……」
その瞬間、レンの胸が熱く震えた。
この夜、レンは何度も溶かした。
──翌朝。
彼女は二日酔いの頭を抱えながら、レンの胸へ顔を埋めて目を覚ました。
「あれ……あったかぁい。……おはよ、レンくん」
あれだけ酔っていたのに記憶があることへ、レンは少し感心する。
「今、一緒にいてくれて……嬉しい……」
昨日はじめて抱いた男に、こんなに甘えるかよ。
名前を知っていたのも、どこかで拾った情報なんじゃないか。
美人局みたいな展開すら頭をよぎる。
けれど、今のところ何も起きていない。
「レンって呼ぶの……なんで?」
「名前教えてくれないから……あだ名」
彼女は無邪気に笑う。
レンは一瞬、固まった。
──あだ名? マジかよ……?
本当の名前は、もう何年も誰にも言っていない。
歌舞伎町に来てから捨てた名前。
プッシャーとして生きるために、過去の自分を切り捨て、偽名で、誰でもない名前で生きてきた。
なのに、この女は酔った勢いで、ぽろっと呼んだ。
「似合うと思ったんだよね。これからもそう呼んでいい?」
不思議と、悪くなかった。
むしろ胸の奥があたたかくなる。
気持ち悪いくらいだった。
この子は、俺の捨てた名前を無邪気に拾い上げ、「レンくん」って呼んで笑った。
「……ああ、いいよ。レンで」
彼女はぱっと顔を上げ、にこっと笑う。
「やった……レンくん大好き……可愛くない? 蓮の花みたいな感じ」
その瞬間、この名前でもう一度生きていけるかもしれないと思った。
そんなはずないのに。
でも、お前がそう呼ぶなら、それでいい。
その日は時間が許す限り、ラブホテルで二人でだらだら過ごした。
連絡先を交換して、『MIU』という名前を知って、備え付けのカラオケで歌って、迎え酒して、やりたくなったらまた触れ合った。
フルネームすら知らない。
それでも、普通のカップルみたいだった。
ソファに二人でくっついて座る。
レンの腕がMIUの腰を抱き、MIUもレンの肩へ身体を預けていた。
カラオケのデンモクで、MIUが何気なく人気のデュエット曲を入れる。
レンは「ちょっとそういうのはできないタイプだから」と、MIUが一人で一生懸命二人分歌うのを、からかいながら眺めていた。
「これ、一人足りなくない?」
そう言って笑うMIUが、やけに無邪気で可愛かった。
理由はわからない。
けれど、離れがたかった。
レンは、新しい人間関係に浮き足立つ自分を感じていた。
でも、きっとそれも春のせいだ。
心の中で光った小さなダイヤモンドを、レンはそっとしまい込んだ。
第2話 壊れ方を知らないまま
──数日後、別の夜。
コインを全部飲まれた台の前で、レンはしばらく動かなかった。
画面はもう、ただの光の残骸みたいに点滅している。
さっきまで、あれに全部預けていた。
考えることも、明日のことも、自分の価値も。
当たればいい。
それだけでよかった。
外へ出ると、夜風が妙にぬるい。
現実へ戻されたみたいで、少しだけ息が浅くなる。
路上へ転がっていた煙草の箱を蹴り飛ばす。
ポケットのスマホを見る。
誰に連絡するでもなく、ただ画面をなぞった。
そのとき、不意に思い出す。
柔らかい肌と、曖昧に笑う女の顔。
名前もよく知らないくせに、あいつの前にいるときだけは、頭が静かになった。
あれも、少し似ていた。
当たるかどうかもわからないのに、ただ座って、全部預けてしまう感じ。
でも、台よりは、あいつのほうが──ほんの少しだけ温度があった。
そんなことを考えながら歩いていた歌舞伎町の裏路地で、レンはMIUを見つけた。
道端へ崩れ落ち、膝を抱えて震えている。
過呼吸になっているみたいだった。
「はぁ? MIU……!?」
レンは慌てて駆け寄り、強く抱きしめる。
「俺だ、レンだ……わかるか? おい。
息、合わせて……吸って……吐いて……」
路地の隅で崩れ落ちていたMIUを、レンは半ば強引に抱き上げ、自分のマンションへ連れ帰った。
何もないワンルームへ敷かれた布団に彼女を横たえる。
MIUは激しい過呼吸と、酒と、止まらない涙に溺れていた。
「……こないで……っ、私、きたない……っ」
MIUはレンの腕を振り払おうとしながら、自分の身体を掻きむしる。
彼女の視線は、どこか別の場所を見ていた。
虚ろな瞳の奥で、過去の光景がフラッシュバックしている。
「……やめて……」
誰へ向けているのかわからない声。
──うるさい。
低い怒鳴り声が、耳の奥で弾ける。
肩を掴まれる感触。
冷たい指。
逃げ場のない空気。
「違う、違うの……」
息が詰まる。
空気が薄い。
肺がうまく動かない。
──あんたが悪いんでしょ。
女の声。
乾いた、刺すみたいな声。
視線だけが落ちる。
スカートの裾。
震える膝。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
爪が、自分の腕へ食い込む。
痛いのに、止められない。
──はしたない。自業自得よ。
その言葉が、何度もこびりついて離れない。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……あ、あぁ……」
苦しみの波が、また押し寄せてくる。
「MIU、落ち着け。何があった?」
レンは暴れる彼女の細い手首を、優しく、それでも逃がさないよう掴んだ。
MIUは記憶を失くしたみたいに支離滅裂な言葉を吐きながら、ただ泣き叫び続ける。
「あぁ……っ、生きててごめんなさい……私が……私が悪いから……っ!」
どれくらい経ったのかわからない。
レンのシャツは、MIUの涙と汗、そして暴れた拍子にこぼれた水でぐしょぐしょになっていた。
背中には、パニックになった彼女の爪が食い込み、鋭い痛みが走っている。
普通なら、とっくに投げ出していてもおかしくない。
部屋から追い出していても、不思議じゃなかった。
パチスロで負けた苛立ちも、現実逃避したい気持ちも、この時間の中でどこかへ消えていた。
ただ、目の前でボロボロに壊れながら泣いているこの女を、一人にしてはいけない。
その本能だけが、レンをここへ繋ぎ止めていた。
「……汚くねぇよ」
レンは、疲れ果てて少しだけ動きの鈍くなったMIUを、毛布ごと強く抱きしめた。
「お前が何を見て、何て言われてきたか知らねぇけど……俺にとっては、ただのMIUだ」
耳元で繰り返される、低くて少しぶっきらぼうな声。
「だから、汚くねぇ」
母親の冷たい声でもない。
教師の卑怯な囁きでもない。
ただ、今の自分をそのまま肯定しようとする、熱い体温だった。
MIUの呼吸が、ようやく少しずつ整い始める。
深い闇の中で、レンの金髪が窓から差し込む街灯を反射していた。
小さな光の道標みたいに見えた。
「……レン……くん……?」
「おう。やっと戻ってきたか」
レンは、MIUの濡れた頬を乱暴に、けれど愛おしそうに拭った。
この夜は、きっと何度でも繰り返される。
そんな気がした。
それでも、もう離す気にはなれなかった。
この女のトラウマも、狂気も。
これから先、何度も訪れるであろうこんな夜も。
全部、自分の人生へ引き受けるみたいな、狂った覚悟が胸の奥へ沈んでいく。
「……全部、溶かしてやる」
レンの唇が、MIUの額へそっと落とされた。
それは契約みたいな、重く静かなキスだった。
何もないワンルームのベッドへMIUを横たえ、毛布をかける。
レンは、その手をずっと握り続けていた。
──こいつ、こんなもんじゃ終わらねぇだろ。
自分が何を期待しているのかは、まだよくわかっていなかった。
第3話 救われなかった側のやり方
MIUがようやく眠りについた頃。
レンはベッドの横へ座り、金髪を掻き上げながらスマホを手に取った。
あの絶叫みたいな暴走。
近所の人間が警察を呼ばなかったのが救いだった。
「……どうしたらいいんだよ……MIUの、あれ……」
検索窓へ言葉を打ち込む。
絶叫の中へ滲んでいた断片。
殴らないで。
助けて。
先生。
やめて。
お母さん。
私は汚い。
私が悪い。
ごめんなさい。
死にたい。
断片的ではある。
けれど、それだけで十分すぎるほど辛い記憶を想像させた。
出てくる症状や状態を、レンは無意識みたいに追いかけていく。
『パニック発作』
『トラウマ』
『セックス依存症』
関連項目へ並ぶ言葉が、目へ焼きついた。
パートナーが『ただ抱きしめて温める』『発作時に現実へ戻す声かけ』を行うことで、依存の連鎖を断ちやすくなる。
大切なのは、快楽だけじゃない。
『存在そのものを肯定する愛』
ブルーライトが、レンの瞳を冷たく照らしていた。
「……ああ、クソ」
喉の奥へ、苦い灰を飲み込んだみたいな感覚が広がる。
既視感だった。
MIUの震える肩。
焦点の合わない瞳。
それは、レンがとっくに捨てたつもりでいた、遠い記憶の底と重なっていた。
狭くて薄暗いアパート。
足の踏み場もないくらい散らかったゴミ。
その中心で、父親が死んでいた。
顔色はどす黒く、腕には、自分の息子でさえ一目で「それ」とわかる無数の注射痕。
「……父さん」
呼んでも返事はない。
薬品の嫌な匂いと、腐りかけた生活臭だけが鼻についた。
父親は、あっち側の人間だった。
文字通り薬へ溺れ、薬に食い殺された。
葬儀とも呼べない集まりへ来ていた大人たちも、誰一人泣かなかった。
「レン、お前、行く宛てねぇんだろ」
父親の弟分を名乗る男が、レンの細い肩へ手を置く。
その手からも、父親と同じ薬品の匂いがした。
「親父さんのツケは、お前が体で払うか……こっちを手伝って稼ぐかだ。学校なんて行っても、どうせまともな人生は歩めねぇよ。俺たちが『居場所』を作ってやる」
差し出されたのは、救いの手じゃなかった。
その手を取ることは、父親を殺した呪いを受け継ぐことと同じだった。
けれど、幼いレンには、それを拒んで生きていける世界なんて、どこにも用意されていなかった。
「……居場所、ね。笑わせんな」
レンは自嘲気味に呟き、スマホをベッドへ放り出した。
結局、自分はあの日の延長を、今も場所を変えて歩いているだけだ。
薬で壊れた父親と何も変わらない。
その薬で飯を食い、ギャンブルで金を溶かす。
レンにとって、この街の空気は汚泥と同じだった。
自分自身も含めて。
だからこそ、MIUが眩しかった。
彼女は、この汚泥の中へいながら、まだ「外側」の匂いをさせていた。
「お母さん」や「先生」に許しを乞い、誰かへ助けを求め、何かに傷つきながら、必死で人間らしく壊れようとしている。
レンは、眠るMIUの頬へ節くれだった指先をそっと触れさせた。
自分みたいな人間が、誰かの『居場所』になれるわけがない。
──それでも。
せめて自分は、彼女が「外側」の人間として、ただの女の子として泣き喚ける場所だけは守りたかった。
「……MIU。……俺がなんとかする」
それは、あの日誰にも助けを求められなかった自分自身への、遅すぎる誓いみたいでもあった。
レンは、寝息を立てるMIUの黒髪を優しく撫でる。
ネオンの光が静かに差し込み、二人の影をぼんやり包んでいた。
今日のパチスロの負けなんて、もうどうでもよくなっていた。
いや、忘れたわけじゃない。
どうでもいい場所へ押し込まれているだけだ。
指先へ残る感触をなぞるたび、頭の中のノイズが少しずつ消えていく。
似てるわけねぇだろ、と思った。
人間と台を一緒にするとか、頭がおかしい。
でも、脳内へ焼きついている感覚は、あれと同じだった。
たかが三時間。
ハマりで天井へ到達したようなものだ。
当たるかどうかもわからないのに、全部預けたくなる感覚だけが残っていた。
──ああ、これでいい。
「お前の壊れるところも、欲しがるところも……全部、離す気ねぇから」
考えなくて済むなら、何を失ってもいい気がした。
第4話 雨に隠れて触れて
歌舞伎町の路地は、昼間でもネオンが薄く滲んでいた。
MIUは、いつもの黒いレースのミニワンピを雨に濡らし、網タイツを太ももまで上げ直すのも諦めるくらい、びしょ濡れだった。
そのままBARの扉を押す。
カウンターの向こうで、ユウキがグラスを磨く手を止めた。
前髪のかかるメガネの奥。
静かな炎みたいな視線が、MIUを捉える。
「今日はまた一段とびしょびしょだな」
MIUは小さく笑い、濡れた髪を指で梳いた。
水滴がぽたりとカウンターへ落ちる。
その音だけが、やけに大きく響いた。
「……今日は、一人?」
「レンくん、今日は遅くなるって……だから、雨宿りさせて」
ユウキの喉が、わずかに鳴る。
あの日も、雨だった。
MIUと出会った日の歌舞伎町。
アスファルトへ溜まった水が、青いネオンをじっとり反射していた。
ユウキはカウンターの奥、いつもの場所へ立っていた。
黒髪を無造作に流し、銀縁メガネのレンズへ青い光が揺れている。
百八十センチの長身を少し前屈みにしながら、グラスを磨く手だけが淡々と動いていた。
ここでは、誰もが仮面をつける。
ユウキ自身も、世界を静かに俯瞰する癖がついていた。
軒下の影へ、小さな人影が立っていた。
黒髪のロングヘアが雨に濡れ、頬や肩へ張り付いている。
百六十センチくらいだろうか。
肩が小さく震えていた。
足元へ置かれたバッグは、旅行にしては多いような、少ないような、不思議な量だった。
ユウキは静かに近づく。
「濡れてますね……入ってきていいですよ」
彼女が顔を上げた。
「え……いいんですか? ありがとうございます」
少し怪訝そうにしていたが、
相手がバーテンダーだと気づくと、すぐに人懐っこい笑顔を浮かべた。
ユウキは扉を開け、中へ誘い入れる。
彼女はタオルを受け取りながら軽く頭を下げ、店内へ入ってきた。
カウンターへ座ると、タオルをぎゅっと握りしめる。
寒さのせいか、指先が小刻みに震えていた。
店内には、スーツ姿の男が一人。
静かにグラスを傾けている。
彼女は警戒するみたいに店内を見回したが、二人だけだとわかると、荷物を足元へ置いてスツールへ腰掛けた。
ユウキがホットミルクを差し出す。
「わあ、温かい……ありがとうございます」
彼女は小さく微笑んだ。
「あの、でもお金なくて……」
すると、スーツの男がすぐ反応する。
「俺がおごってあげるよ。雨、大変だったね」
「急に降ってきて……行くとこなくて」
「そうだったの。旅行中とか?」
「そんな感じです」
「へぇ、これも縁だしさぁ、ちょっと飲もうよ」
「あ、でも……」
「奢る奢る、心配しないで」
「そんな……」
男の目が、少しずつ変わっていくのをユウキは見ていた。
狩りを始めた獣みたいな光。
ユウキは黙ったままグラスを磨き続ける。
「よかったら、俺が近くのホテルとか取ってあげるよ。困ってるんでしょ?」
彼女は震える手でホットミルクのカップを包み込み、また曖昧に笑った。
「ふふ、ありがとうございます。でも、これいただいてるから」
自由奔放そうな笑顔の奥で、何かがちらちら揺れている。
人を見る仕事で鍛えられた感覚が、初めてその揺らぎを捉えようとしていた。
ユウキは、BARでカップルが生まれるのを歓迎していた。
ここが縁で付き合った客たちは、何度も店へ来てくれる。
客を増やすチャンスでもあった。
けれど、MIUの受け答えは違う。
拒絶しているわけじゃない。
でも、甘えるつもりもない。
──今回は、カップル成立ならずだな。
男は、MIUが嫌がっていないと勘違いしたまま、さらに距離を詰める。
「濡れてるし、お風呂入ったほうがよくない? 風邪引くし」
カウンターの下で、男の手がMIUへ寄っていく。
その瞬間だった。
彼女が初めて、小さく身体を引く。
他人には気づかれないくらい、一瞬だけ。
笑顔の端が、ほんの少し歪む。
ユウキは咄嗟に声をかけた。
「お客様、彼女びっくりしちゃってますから」
口から出たのは、いつもの“冷静なバーテンダー”の声だった。
男がお手洗いへ立った隙に、ユウキは再びMIUを見る。
自分が、今日初めて会っただけの相手へ、なぜこんなに構ってしまうのかわからなかった。
誰にでも愛想を振りまく、雨に濡れた子猫みたいな女。
深く関われば、きっと面倒になる。
理性はそう警鐘を鳴らしていた。
なのに、銀縁メガネの奥の視線は、彼女の震える指先を追うのをやめられない。
「今日はここにいていいですよ」
ユウキは静かに言った。
「なにか困ってる感じですし、今日は何時まででも大丈夫です」
「あ、えっと、お金が……」
「とりあえず今日は、なにも心配しないでください」
湿った黒髪が肩へ落ちる。
震えていた手が、少しだけ止まった。
「……本当に? ありがとうございます……」
人懐っこい笑顔のまま、声の端だけがほんの少し掠れていた。
ユウキはただ頷く。
言葉は重ねない。
ただ、そこにいる。
雨に濡れた小さな拾い物へ、初めて「ここにいていい」と言った夜だった。
──ユウキは我に返る。
走馬灯みたいな記憶に、一瞬だけ身じろぎした。
今、店は準備中で、まだ客は一人もいない。
MIUがこのBARへ通うようになってから、何度も二人きりになった。
初めて雨宿りした日。
誰かから逃げるみたいに隠れ場所を探してきた日。
ナンパから助けて、かくまった日。
何度も、言葉にならない熱を交わしかけた。
でも、MIUの唇から「レン」という名前が出るたび、ユウキは静かに引いていた。
──でも、今日は違う。
雨が窓を叩く音が、心臓の鼓動みたいにうるさい。
ユウキは導かれるみたいにカウンターを回り、MIUへ近づいていく。
濡れた肩へ触れた瞬間、手が震えた。
冷たい。
なのに、その下では熱が脈打っている。
ユウキは思考を振り切るみたいに踵を返し、タオルを手渡した。
けれど、MIUは受け取らない。
そのまま、そっとユウキへ近づく。
「ユウキくん、寒いよ……」
「……だめだよ、MIU」
声が低く掠れる。
ユウキはタオルを肩へかけた。
MIUの瞳が揺れる。
大きな黒い瞳へ、雨粒みたいな涙が滲んだ。
「……わかってる。でも、ユウキくんの指、あったかくて……ほしくなっちゃった……」
その一言で、糸が切れた。
──いや。
切れたというより、ほどけるのを待っていたのかもしれない。
MIUには、自分が善良なバーテンダーなんかじゃないことを、気づかせたほうがいい。
ユウキは細い腰を強く引き寄せた。
唇が重なる。
MIUの吐息が甘く湿って、口の中へ流れ込んできた。
雨の匂いと、甘い唾液が混ざる。
頭がくらくらした。
「あッ……ユウキくん、だめ、こんな……」
抵抗するみたいな声。
なのに、指はユウキの背中へ回り、爪を立てている。
長く絡み合うキスの中、少しずつ追い詰められていたMIUの背中が、バーカウンターへぶつかった。
今度こそ、逃げ場がない。
ユウキの手が太ももを這い上がり、丸い尻を撫でる。
「……やめたほうがいいのは、わかってる」
焦らすみたいに、ゆっくり指先を滑らせる。
ユウキは、MIUの瞳を真っ直ぐ見ていた。
MIUはもう、虚ろな目で腰を震わせている。
「……でも、無理だな」
首筋へ歯を立て、赤い痕をいくつも刻んでいく。
やがて唇が離れ、ユウキは自分でつけた痕を見下ろした。
「……これ、消えないよ。ちゃんとやめてって言わないから」
手を滑り込ませ、内側の熱を撫でる。
その瞬間、MIUの身体がびくんと跳ねた。
もう熱を帯びている。
雨のせいじゃない。
「……だめ……ッ……ユウキくん、ほしいよぉ……」
その声が、助けを求めているのか、欲しがっているのか。
もう区別がつかなかった。
ユウキはほんの一瞬だけ、寂しそうに目を揺らす。
けれど、それを見なかったことにするみたいに、すぐ細めた。
ここで手を離せば終わる。
ユウキは、それを知っていた。
動きを止める。
けれど、触れたまま離れなかった。
──離すための間だったはずなのに、逆に深く沈んでいく。
二人の呼吸は、もう止められない熱を持っていた。
昼間の準備中のBARへ、湿った吐息だけが静かに混ざっていく。
第5話 壊れない分け方
MIUは、歌舞伎町のネオンが滲む裏路地のワンルームマンションの前へ立ち尽くしていた。
レンに嘘をつきたくない。
でも、ユウキの指の感触も、熱い唇の記憶も、頭から離れなかった。
その夜。
MIUは首筋と鎖骨へ赤い花を咲かせたまま、レンの部屋へ帰った。
レンは、その姿を見た瞬間だけ動きを止めた。
けれど何も言わず、静かに引き寄せる。
そのまま膝の上へ座らせた。
金髪が、MIUの頬をくすぐる。
「一人で悩んでんな? なにがあった?」
MIUの瞳が揺れた。
大きな黒い瞳へ涙が滲み、ぽたりとレンの肩へ落ちる。
「……ユウキくん……」
レンの腕が、一瞬だけ固くなった。
でも、すぐにMIUの髪を優しく撫でる。
「……あのBARのユウキか。あのメガネ野郎」
──アイツなら、やるか。
レンの胸の奥がざわついていた。
MIUは首を振る。
「違うの、無理矢理とかじゃなくて……私、寒くて……また、ダメなのに……」
ぽろぽろと涙が溢れていく。
「ユウキくんとレンくんのケンカ、見たくないよ……
でも、私がいたから、二人の仲まで……ごめんなさい」
レンはMIUを抱きしめた。
熱い体温。
いつもみたいに優しくて、少し狂った匂い。
「……怒ってない。MIUが欲しいって思ったなら、それでいい」
レンの声は静かだった。
「ユウキのこと、好きか?」
問いかけながら、奥歯を噛み締める。
MIUの鎖骨へ残る赤い痕が、ナイフみたいに視界へ刺さっていた。
あの冷静なユウキが、どんな顔でMIUを貪ったのか。
想像するだけで、胃の奥が真っ黒な嫉妬で煮え返りそうになる。
MIUの涙は止まらない。
それでも、小さく頷いた。
「でも、わかんない……自分で決められない。二人がいない世界は怖いよ」
掠れた声が、レンの理性を辛うじて繋ぎ止める。
──そうだ。
こいつは、一人じゃ立てない。
そして、自分も。
いつまでもこいつの隣へいられる保証なんてなかった。
クローゼットの奥へ詰め込まれた「商品」。
あれがいつか、自分をMIUから引き離す未来を、レンは嫌になるほど理解していた。
──俺だけじゃ、支えきれねぇ。
ユウキを「共犯者」にする。
MIUをこの街の闇へ沈めないための、分散投資だった。
汚い計算だ。
それでもレンは、MIUの涙を指先で拭った。
「……いいよ、それで。楽なほうでいけよ」
耳元で囁いた声は、自分でも驚くほど低く震えていた。
細い指先をなぞりながら、レンは心の中で呟く。
──一人じゃ、足りねぇんだよな。
MIUが欲しがっているのは、愛なんて綺麗な言葉じゃない。
脳の芯まで痺れさせ、泥みたいな過去を焼き尽くしてくれる圧倒的な熱量。
なら、自分一人の体温で足りない分は、あいつにも払わせればいい。
汚いやり方だった。
最悪の愛し方だ。
それでも。
あの日、自分を泥沼へ突き落とした大人たちとは違うやり方で。
地獄の底でも、俺はこいつを温め続けてやる。
第6話 三人で狂う方法
──数日後。
雨は止んでいた。
けれど、空はまだ重たい灰色をしている。
レンはBARの扉を押した。
カウンターでグラスを磨いていたユウキが、わずかに硬直する。
「……レン」
レンはカウンターへ肘をつき、にぃっと笑った。
いつもの明るい笑顔。
でも、その目だけが妙に真剣で、少し狂っていた。
ユウキは何も言わず、ライムとミントのカクテルを差し出す。
レンが来るときの、いつものメニューだった。
「MIUのこと、好きなんだろ?」
ユウキは静かに頷く。
「……ああ。諦められなかった」
レンはグラスを傾け、一気に飲み干した。
それから、ゆっくり口を開く。
「MIUのトラウマ、聞いたことあるか?」
ユウキは静かに頷いた。
「……話してくれたことはある」
レンの声が低くなる。
「助けてやりてぇって思う?」
メガネの奥の黒い瞳は揺らがなかった。
「全部まとめて愛すつもりだ」
レンは小さく息を吐く。
「ほんとか? 昼も夜も寝てられねぇぞ? MIUのパニック発作、見たことあんのか?」
ユウキは一瞬だけ視線を落とした。
「……一度だけだが」
手元のバースプーンへ、銀色の光が揺れる。
その光の中へ、あの夜の光景が浮かび上がった。
まだ店に客が数人残っていた深夜。
カウンターの端で飲んでいたMIUが、突然ガタガタと音を立ててグラスを落とした。
真っ青な顔で胸を押さえ、呼吸を忘れた魚みたいに口をぱくぱく動かしている。
ユウキは咄嗟に、カウンターの奥にある従業員用の小さなソファへ彼女を運び込んだ。
店内へ流れるジャズが、そのときだけは酷い不協和音みたいに聞こえた。
『はぁっ、はぁ……っ、ごめんなさい……』
MIUはユウキの腕の中で、自分自身を抱きしめるみたいに丸まり、ぶるぶる震えていた。
焦点の合わない瞳から、涙だけが止めどなく溢れていく。
『生きてて、ごめんなさい……ごめんなさい……』
何度も。
何度も。
呪文みたいに繰り返される謝罪。
誰へ向けたものかもわからない、絶望的な孤独。
いつもは奔放に笑い、男たちを翻弄する彼女の皮を剥いだ先にあったのは、ただ許しを請うだけの、幼い子供みたいな魂だった。
ユウキは何も言わず、冷え切った手を握り続けていた。
一時的な過呼吸だった。
けれど、その背中をさすり続けた手のひらには、彼女が抱えている闇の冷たさが、今も残っている気がした。
ユウキは意識を現実へ戻す。
メガネを指先で押し上げ、レンを見た。
「その発作で、男の体を求めてしまうことも知ってる」
レンの目が細くなる。
それから、ゆっくり笑った。
「やるじゃん。……ひとつ提案があるんだけど」
レンはカウンター越しに身を乗り出し、低く囁く。
「俺はあいつの壊れてるとこ、治す気はねぇ」
声は静かだった。
「お前がやれるってんなら、やってみろよ」
ユウキは眉を寄せる。
「……どういう意味だ」
「MIUが言ったんだよ。自分で決められないけど、二人がいない世界は怖いってさ」
「ふざけてるのか?」
「……独りじゃ無理だろ、あいつ」
ユウキは喉の奥で小さく呟いた。
──狂ってる……。
けれど。
独りで彼女を抱える限界も、どこかで予感していた。
あの発作は、時と場所を選ばない。
安心できる場所を、常に探しているみたいだった。
観察すればするほど、彼女には“普通の恋愛”なんて無理なんだと思っていた。
ユウキはゆっくり息を吐き、静かに頷く。
「……MIUが笑えるなら」
レンの手が、ユウキのメガネへ触れた。
そっと外す。
黒い瞳がむき出しになる。
「三人で、狂おうぜ」
レンの声は、甘く低かった。
「MIUを、俺たちで守って、壊して、愛してやろうよ」
ユウキは、ぼやけた視界のままレンを見据えていた。
目の前の金髪の男は、自分と同じ地獄を見ている。
……いや。
自分よりもっと深く、その泥の中へ足を突っ込んでいる。
──俺も、一緒に狂えるだろうか。
レンが差し出したのは、救いなんかじゃない。
共に沈むための、呪いみたいな招待状だった。
それでも。
あの日、ソファで震えていた彼女の冷たさを思い出すと、拒絶の言葉は喉の奥へ沈んでいく。
「……ああ。三人で、いこう」
自分の声が、歌舞伎町の喧騒へ溶けていった。
それは、静かな崩壊の始まりだった。
第7話 死ぬまで溶かして
ラブホテルの部屋には、柔らかな間接照明だけが灯っていた。
二人の熱へ挟まれるみたいにして、気づけばMIUはこの部屋にいた。
黒い革張りのソファへ、小さく身を寄せて座る。
向かい側にはユウキとレン。
まるで囲い込むみたいに、並んで腰を下ろしていた。
ユウキは銀縁メガネの奥の瞳を、わずかに細める。
「……MIU」
低く落ち着いた声。
いつも通り感情を抑えたトーンなのに、今日はどこか熱を帯びていた。
隣のレンが、金髪を軽くかき上げながら、にやりと笑う。
「俺たち、さっき二人で話したんだよ。MIUのこと、ユウキと俺で……愛しちゃおうかって」
MIUの瞳が、かすかに揺れた。
レンの声は軽い。
でも、その奥にある熱だけは妙に重かった。
「つまりさ……俺とユウキ、二人ともMIUの彼氏だったら。MIUはどう思う?」
一瞬、沈黙が落ちる。
エアコンの低い稼働音だけが、静かに響いていた。
「MIUが嫌なら、俺たちはすぐ引く」
ユウキが静かに言葉を重ねる。
メガネへ指をかけ、ゆっくり押し上げた。
「でも……もしMIUが少しでも“いい”って思ってくれるなら。俺たちは本気で、お前のそばにいたいと思ってる」
二人の視線が、優しく絡みつく。
守るみたいに。
それでいて、逃がさないみたいに。
「MIU。お前がどうしたいか……聞かせてくれ」
部屋の空気は甘く重く、それでいて妙に張りつめていた。
照明を浴びた黒髪が、MIUの表情を半分隠している。
彼女は膝の上で、両手をぎゅっと握りしめていた。
「……私……」
掠れた声。
MIUは一度目を伏せ、深く息を吸ってから、ようやく言葉を押し出す。
「私に、何ができるの……? 二人を満足させるなんて、私にはできないよ」
声が震えていた。
自信なんて、どこにもない。
レンが思わず身を乗り出しかける。
けれど、ユウキが軽く手を上げ、それを制した。
長身を少しだけ低くし、MIUの目線へ合わせる。
「私……いつも、流されてばっかりで……」
消えてしまいそうな声。
「幸せにするって言われても……私、幸せな未来なんて想像できない。どうしたらいいか、わからないの……」
最後は、ほとんど吐息だった。
潤んだ瞳。
それでも涙だけは零さない。
唇を噛み、必死に耐えている。
ユウキが、ゆっくり息を吐いた。
「……無理に答えなくていい」
低く静かな声。
「わからないままでも、今はここにいればいい」
その言葉は慰めというより、暗い水の中へ沈める体温みたいだった。
レンも柔らかく笑う。
「そうそう。未来とか、今は考えなくていいんだって。俺たちも、別に完璧なこと言いたいわけじゃねーし」
レンがそっと手を伸ばしかける。
けれど、触れずに止めた。
「今日、ここに来てくれただけで嬉しいよ」
部屋の空気が、静かに溶け始めていた。
──やっぱりユウキは適任だな。
レンは心の中で呟く。
隣のユウキを横目で見る。
落ち着いた佇まい。
相手が欲しがる言葉を、優しく選べる男。
MIUはまだ膝の上で手を握りしめ、小さく震えている。
“どうしたらいいかわからない”。
それこそが、今の彼女の本音なんだろう。
レンは、さっきユウキと交わした約束を思い出していた。
──俺はMIUの狂気を肯定して、壊す側に回る。
お前はMIUの傷を癒して、包む側に回れ。
二人でMIUを守ろうぜ。
MIUを納得させる方法は、もうわかっていた。
レンは口角を小さく上げ、ソファから腰を浮かせる。
そのまま、MIUのすぐ隣へ距離を詰めた。
「MIU……」
低く甘い声。
こめかみへ、そっと唇を落とす。
柔らかい熱が伝わった瞬間、MIUの身体がびくりと跳ねた。
「こういう楽しみ方もあるんだよ……怖がらなくていい。俺たちが、ちゃんと気持ちよくしてやるから」
MIUの頬が、じわじわ桜色へ染まっていく。
レンは細い腰へ腕を回し、優しく引き寄せた。
「……流されちゃうみたいで嫌?」
耳元へ熱い息が落ちる。
「でもさ、MIUはいつも、こうやって流されてきたんだろ?」
指先が、ゆっくり腰のくぼみを撫でる。
「だったら、俺たちに流されるのも……悪くないよな」
甘く低い声。
「俺は、お前の壊れてるとこも可愛がるぜ?」
MIUの呼吸が浅くなる。
触れられた場所から熱が広がり、小さな身体が細かく震えていた。
ユウキは、わずかに眉をひそめる。
胸の奥へ焦燥が走った。
けれど、レンは悪びれもせず、不敵に笑う。
「はじめてみてからでもいいよな? 反応見てるだけで……俺、止められそうにねぇよ」
レンは首筋へゆっくり唇を押し当てた。
ユウキが残した痕をなぞるみたいに、舌先で湿らせていく。
「ん……っ」
小さな吐息が漏れる。
潤んだ瞳。
熱を帯びた頬。
触れられるたび、身体が敏感に跳ねていく。
どうしたらいいかわからないまま、MIUは流されるように身を委ね始めていた。
その様子を、ユウキは真正面から見せつけられる。
ソファの上で、長身がわずかに身じろいだ。
胸の奥で、静かな焦燥が一気に燃え上がる。
人生を俯瞰し続けてきた感覚。
「わたしのこと別に好きじゃないでしょ」
昔、元恋人へ言われた言葉。
あのときも、自分は何も止められなかった。
ただ黙って見送ることしかできなかった。
──今まで、こんなに欲しいと思ったものはなかった。
銀縁の奥の瞳が、暗い熱を帯びて揺れる。
「……MIU」
抑えた声。
けれど、伸ばした指先には冷静さを超えた執着が滲んでいた。
ユウキは、MIUの手をそっと包み込む。
MIUは無意識に、その手をぎゅっと握り返していた。
乱れた黒髪。
熱を帯び、前へ傾く華奢な身体。
レンは満足そうに笑いながら、首筋をねっとり舐め上げた。
「ん……っ、あ……」
甘い声が零れる。
快楽と羞恥で、細い腰が震えていた。
自然と、MIUの顔がユウキへ向く。
真っ赤な頬。
潤んだ瞳。
その儚い表情が、ユウキの胸を強く刺した。
もう我慢できなかった。
ユウキは彼女の顔を引き寄せ、深く唇を重ねる。
柔らかいのに、強い執着を含んだ口づけ。
首筋へ落ちるレンの熱。
ユウキの深いキス。
MIUはもう、逃れられない熱へ飲み込まれていた。
身体が溶けるみたいに痺れ、思考が白く塗り潰されていく。
やがて唇が離れる。
朦朧とした瞳が、ユウキを映していた。
その瞬間。
MIUの唇から、思いもよらない言葉が零れる。
「……気持ちよくなってるうちに、死にたいの……」
一瞬で、空気が止まった。
レンの動きが止まる。
ユウキは握った手へ力を込めた。
MIU自身も、自分の本音へ驚いたみたいに目を瞬かせている。
ユウキの胸へ、痛いほどの切なさが広がった。
自分を大切にしたことのない彼女が、この甘い瞬間にすら“死”を願ってしまう。
その脆さが、守りたくて、壊したくて、全部飲み込んでしまいたくなるほど愛おしかった。
レンも、首筋へ顔を寄せたまま低く息を吐く。
それから、腰を抱く腕へ力を込め、耳元へ囁いた。
「いいぜ……死ぬまで溶かしてやるよ」
甘い快楽と、脆い本音。
それらが混ざり合った濃密な空気が、ラブホテルの部屋をどこまでも重く満たしていた。
第8話 ほどけない視線
初めて三人で、歌舞伎町のクラブへ行くことになった。
MIUが「行ったことない」と嬉しそうに声を弾ませたから、一度くらい経験させてやりたかったのだ。
低く響くベース。
紫と赤のネオンが、フロアを脈打つみたいに照らしている。
MIUの華奢な身体は、黒いミニドレスへ包まれていた。
汗で張り付いた黒髪が首筋へ絡み、薄い前髪が揺れるたび、その瞳が妖しく光る。
レンが金髪を揺らしながら、彼女の腰へ腕を回す。
ユウキは長身を背後へ重ねるみたいに立っていた。
三人で飲んだカクテルが、甘く喉を滑り落ちていく。
「……MIU、顔赤いぞ」
ユウキが耳元で囁く。
熱い息が首筋を濡らし、MIUの身体がびくりと震えた。
レンの指が、逃がさないみたいに腰を押さえる。
「……もっと飲めよ。今夜は、俺たちいるからさ」
ユウキはドリンクを取りに、カウンターへ向かった。
馴染みのバーテンダーと軽く言葉を交わしながら、ふとMIUの方を見る。
なぜか、レンがいない。
MIUだけが一人、どこか心細そうに立っていた。
周囲を見回しても、レンの姿は見当たらない。
そのときだった。
知らない男がMIUへ話しかける。
ユウキの視線が鋭く細まった。
「あ、ちょっとごめん」
バーテンダーとの会話を切り上げ、駆け寄ろうとする。
しかし、不意に腕を掴まれた。
強引な感触に、足が止まる。
レンだった。
レンはユウキの瞳を覗き込み、「シーッ」と人差し指を唇へ立てる。
「見てろって……」
ユウキは焦燥に駆られながら、MIUを目で追った。
このままじゃ、また流される。
危険な賭けだ。
鋭く睨みつける。
改めてMIUを見ると、男はまだ離れず、その距離は危ういほど近かった。
笑顔で対応しているMIUを前に、ユウキは一歩を踏み出せずにいる。
──けれど。
予想は外れた。
MIUは男の手をはっきり払い除け、そのままこちらへ駆けてきたのだ。
酔って少しふらつきながら、カウンターへ手をつく。
「ねぇ、見てたでしょ……」
頬を膨らませる顔さえ愛らしい。
「うちのMIUちゃんは人気者だなーってさ」
レンは笑っていた。
けれど、目だけはまったく笑っていない。
ユウキの胸には、説明できないざわめきが広がっていた。
ドリンクを持ち、三人はフロアの暗がりへ移動する。
自然と身体が密着した。
音楽へ合わせて揺れるふりをしながら、レンの手が背中を滑り、ドレスの裾をわずかに持ち上げる。
「ごめんって」
まだ拗ねているMIUの機嫌を取るみたいに、指先が太ももの内側をなぞった。
吐息が漏れる。
MIUはレンの首へ腕を絡ませた。
レンは満足そうに笑い、そのまま唇を重ねる。
暗がりの隅。
顎を指で持ち上げられた瞬間、金髪が頬へ触れた。
甘いカクテルの残り香と、MIUの蜜みたいな味が混ざり合う。
湿った音が爆音へ紛れ、MIUの身体は震えながらレンへしがみついた。
ユウキの胸には、さっき駆け出せなかった自分への苛立ちが渦巻いていた。
まだ一歩踏み出しきれない。
その事実が、やけに悔しかった。
ユウキは長身の身体で、背後からMIUを抱きしめる。
そのまま壁際へ押しつけるみたいに隠し、レンから奪うように唇を重ねた。
メガネの冷たいフレームが肌へ触れる。
長い指が首筋を撫で、執拗に口内を侵食していく。
唾液が糸を引きながら唇が離れるたび、MIUの瞳はとろけ、
「……ユウキくん……」と掠れた声が漏れた。
周囲の視線が、熱く刺さる。
暗がりで絡み合う三人へ気づいた何人かが、じっとこちらを見ていた。
男たちの視線がMIUの濡れた肌を舐め回し、女たちの視線が嫉妬と興奮で揺れている。
視線が刺さるたび、MIUは少しだけ怖くなった。
でも。
二人へ触れられていると、その恐怖は遠のいていく。
恥ずかしさが、疼くみたいな快楽へ変わっていた。
レンの指が、ドレスの裾から滑り込む。
太ももの内側をゆっくり這い上がり、蜜で濡れた場所を優しく押した。
「……レンくん……だめ……音、聞こえちゃう……」
抗うような声。
なのに身体は正直で、腰がレンの指を求めて押しつけられる。
「こんな爆音の中、聞こえるわけねぇだろ」
レンの唇が耳へ触れる。
「見られてるほうが、興奮するだろ?」
低い声と湿った吐息が、甘い痺れを全身へ広げていく。
ネオンの逆光へ縁取られた三人のシルエットは、映画みたいに扇情的だった。
その様子を、物陰から見つめる瞳がある。
虹色の髪。
スマホを構えようとして、その指が震えて止まった。
ユウキの視線が、一瞬だけ鋭くその影を射抜く。
虹色の髪の青年──カイは、咄嗟に目を逸らし、スマホを下ろした。
心臓を押さえるみたいに、壁へ背中を預ける。
「……あ、カイじゃん。何してんの、こんなとこで」
横から、ガラの悪い連れが声をかけた。
遠慮のない拳が、カイの肩へ叩き込まれる。
鈍い音。
中性的な細い身体が大きくよろめいた。
「っ……もう、やめてよぉ」
打たれた肩を押さえながら、カイはへらりと笑う。
痛みも、屈辱も。
全部、その笑顔の下へ塗り潰して。
ユウキは、その様子を氷みたいな瞳で見据えていた。
自尊心を削られながら笑う少年。
それを消費する周囲の空気。
「……もういい。行くぞ」
ユウキがレンを促し、MIUを庇うように引き寄せる。
三人は、カイと、彼を取り巻く騒がしい日常を切り捨てるみたいに夜の闇へ消えていった。
外の音も、視線も、全部遠ざかっていく。
MIUは、二人へ挟まれているこの場所が、一番静かで安心できる気がしていた。
──それが、少しだけ怖かった。
第9話 ここで暮らそう
歌舞伎町の喧騒から少し離れた、築年数の古いマンションの一室。
ユウキの部屋は、レンの言う通り“ただの寝床”だった。
「……マジで狭ぇな。お前、これ人間が住む広さかよ」
レンは金髪をかき上げ、唯一の椅子へ座ったまま悪態をつく。
「ほとんどBARにいるし、ここは寝る以外に使わないからな。文句あるなら帰ればいい」
ユウキは銀縁メガネを押し上げ、淡々と言い返した。
百八十センチの長身が狭いキッチンへ立つだけで、部屋の圧迫感が増す。
MIUはベッドの端へ小さく座り、落ち着かなそうに周囲を見回していた。
さっきまでBARで話していた内容が、この部屋の空気を重くしている。
MIUには帰る家がないこと。
今はレンのワンルームへ居候していること。
それを聞いたユウキが、「俺の部屋も使っていい」と言い出した。
急遽、この“内見”みたいな相談会が始まったのだ。
「MIU、俺の部屋でもいいが……見ての通り、男一人が寝るためだけの場所だ」
ユウキが差し出したマグカップを、MIUは両手で包み込むように受け取る。
「ううん、十分だよ……。でも、私、居場所ない時はゲームセンターとかにいるから、そんなに気にしないで……」
弱々しく笑った瞬間。
男二人の声が重なった。
「それはダメだ」
「ゲーセンなんて危なすぎるだろ」
レンが身を乗り出す。
「ナンパか補導の格好の標的だぞ」
ユウキも、静かだが威圧感のある声で続けた。
「夜の街を彷徨わせるわけにはいかない。君がどれだけ危ういか、自覚した方がいい」
レンは唇を噛む。
本音を言えば、MIUを自分の部屋から離したくない。
けれど、いつ警察が来るかも、ヤバい客が乗り込んでくるかもわからない部屋へ、パニック発作を抱えたMIUを置いておくのは危険すぎた。
だからといって。
ユウキと二人きりで住まわせるのも、もっと耐えがたい。
ユウキがMIUを見る視線には、自分と同じ“熱”がある。
それが痛いほどわかっていた。
二人の時間が増えれば、MIUの心は自分から離れてしまうかもしれない。
そんな独占欲と嫉妬が、胸を焼く。
沈黙が落ちる。
不安そうに見上げるMIUの、折れそうな肩を見た瞬間、レンは一つの結論へ辿り着いた。
誰か一人が抱えるには、この女は脆すぎる。
そして、愛おしすぎた。
レンは椅子から跳ねるように立ち上がる。
「……よし。シェアハウスだな」
「シェアハウス?」
ユウキが怪訝そうに眉を寄せた。
「ああ。三人で住むんだよ。広めの部屋借りてさ。それならMIUを一人にさせなくて済むだろ」
レンは不敵に笑う。
これなら、MIUを危険から遠ざけられる。
ユウキへ独り占めされることもない。
「……なるほど。合理的ではあるな」
ユウキが、メガネの奥で静かに瞳を細めた。
重苦しかった空気が、少しずつ“計画”へ変わっていく。
レンはスマホを取り出し、MIUの隣へどかっと腰を下ろした。
「ほら、MIU。しけた顔してねーで見ろよ」
画面を差し出す。
「シェアハウス。俺も初めてだから詳しくねーけど、こういうとこなら寂しくねぇだろ?」
そこには、広いリビングや、清潔感のあるキッチンが映っていた。
MIUは驚いたみたいに目を丸くし、そのまま吸い寄せられるように画面を覗き込む。
「……ほんとに、みんなで住むの……?」
「ああ。ユウキの店にも近くて、セキュリティちゃんとしてるとこ探す。お前が一人で震えてなくていい場所だ」
その言葉へ、MIUの瞳がぱっと明るくなる。
彼女にとって“家”は、暴力や悲しみの場所でしかなかった。
けれど、画面へ並ぶ明るい家具は、今まで見たことのない“おもちゃ箱”みたいに見えた。
「ねぇ、レンくん、ユウキくん! 私、これ座ってみたい……!」
震える指先が示したのは、大きなビーズクッションだった。
「これね、SNSで見たの。“人をダメにするソファ”っていうんだって」
MIUが小さく笑う。
「私、これに沈んで、溶けちゃいたいな。一日中、何もしないで、ふわふわしてたい……」
「はは、いいじゃねーか。ダメ人間決定だな。一番でかいやつ買ってやるよ」
レンが笑うと、MIUの頬へ久しぶりの赤みが差した。
彼女は夢中で画面をスクロールする。
まるで宝探しをする子供みたいに。
「あとね……ベッドは、ラブホテルみたいにすっごく大きいのがいいな」
「……三人で?」
ユウキが少し困惑したように眉を上げる。
MIUは無邪気に頷いた。
「うん。起きた時に、右にも左にも二人の体温があるの。それってたぶん……世界で一番安心すると思うから」
その夢は、二人の間へ流れていた嫉妬や緊張を、一瞬で無力化するくらい純粋だった。
MIUが、生きようとしている。
その事実だけで、今は十分だった。
「わかったよ。キングサイズでも特注でも、MIUが溺れるくらい大きいやつを用意しよう」
ユウキが穏やかに頭を撫でる。
MIUは二人の顔を交互に見て、花がほどけるみたいに笑った。
「楽しみ……。こんなに素敵なこと、あってもいいんだね」
レンは、その眩しさへ目を細める。
「……私、生きてていいんだよね?」
その言葉は、あまりにも切実だった。
「あたりまえだろ。思う存分、のびのび生きてやろうぜ」
レンはスマホを置き、真剣な顔でMIUを見る。
「なあ、MIU。……お前、時々すげぇ苦しくなるだろ?
息できなくなったり、泣き止めなくなったりさ」
パニック状態になる時の、虚ろな目。
レンは、それを知っていた。
「病院とか、行ってんのか?
落ち着く薬とか、持ってねぇの?」
その瞬間。
MIUの笑顔が凍りついた。
さっきまで未来へ向いていた瞳が、一瞬で暗く沈む。
「病院は……行ってない。お薬も、ないよ」
声は蚊みたいに小さかった。
自分の腕を抱き込むようにして、震え始める。
「……怖いの。病院……」
白い壁。
無機質な部屋。
鍵の音。
「前に行った時、私が泣きながら話してたら、『落ち着くまでここにいなさい』って、冷たい個室に閉じ込められたの」
助けを求めて行った場所で、“異常者”として扱われた。
「必死で……逃げたの。あそこ、私を助けてくれる場所じゃない」
涙が頬を伝う。
その震えを止めるみたいに、レンは肩を強く抱き寄せた。
「……そうか。怖かったな」
低い声が、ゆっくりパニックを鎮めていく。
「でも次は、俺が一緒に行ってやる」
レンは言い聞かせるみたいに続けた。
「いいか、MIU。もう一人じゃねぇんだよ。医者がお前に変なことしようとしたら、俺がぶちのめしてやる」
「レンくん……」
「なんか良くなる方法があるなら、それでいいだろ。薬必要なら、俺がちゃんと管理してやる。お前を一人で暗い部屋なんか閉じ込めさせねぇ」
額と額をそっと合わせる。
「安心しろ。一緒なら守ってやれる。もう、何も怖くねぇ」
MIUはレンのシャツをぎゅっと掴み、何度も頷いた。
ユウキはその様子を静かに見守りながら、MIUを支える“責任”の重さを改めて噛み締めていた。
歌舞伎町の夜は相変わらず冷たい。
それでも、この狭い部屋の中だけは。
三人の体温が混ざり合い、確かな盾になろうとしていた。
第10話 消えなかった色
歌舞伎町、雨の路地裏。
ネオンの残光が水溜まりへ砕け、虹色の破片みたいに揺れている。
あの夜。
クラブの暗がりで、三人を目撃してから。
カイの頭の中は、ずっと彼らの残像で埋め尽くされていた。
何十人もの髪へ触れても、指先へ残るのはあの三人が纏っていた熱だけだ。
火傷しそうなほど、鮮烈な熱量。
雨の中、一人で歩く彼女を見つけたのは、もう偶然じゃない。
カイ自身、この街の湿った空気の中へ、彼女の匂いを探していた。
「……っ」
息を呑む。
濡れた黒髪が白い肌へ張り付き、まるで月光を吸い込んだ絹みたいに透けて見えた。
急に強くなった雨へ困ったように周囲を見回している。
その瞳の奥にある、かすかな怯えと渇望。
それを見た瞬間、カイの理性が音を立てて切れた。
「──こっち、入って!」
気づけば、細い手首を掴み、自分のいる軒下へ引き込んでいた。
MIUが驚いて顔を上げる。
至近距離。
雨に濡れた虹色の髪。
黒い瞳だけが、祈るみたいな熱を帯びて彼女を見つめていた。
「……綺麗すぎて、死にたくなるね」
剥き出しの本音が漏れる。
MIUが目を丸くした。
心臓がうるさい。
顔が焼けるみたいに熱い。
それでも、掴んだ手は離せなかった。
「あ、ごめん! 変な意味じゃなくて!
……その、早くしないといっぱい雨に降られちゃうと思って……つい」
場違いな告白を隠すみたいに、慌てて言葉を重ねる。
「俺、美容師やってて、カットモデル探してて。
……すごい綺麗だなと思って……。
あ、怪しいやつじゃないから!」
必死に言い訳を並べながらも、視線だけは離せない。
冷たい雨音。
その中で、二人だけの熱が妙に濃く停滞していた。
「どこか、向かってた?」
震える声で尋ねる。
MIUは少しだけ毒気を抜かれたみたいに、小さく頷いた。
「……待ち合わせ」
「そっか。……だから、あの大きいお兄さんと金髪のお兄さん、一緒じゃないんだね」
その瞬間、MIUの肩がびくりと跳ねた。
「え……? なんで……」
「あ、だから変質者とかじゃなくて! この前たまたま見かけてさ。お姉さん綺麗なのはもちろんだけど、あの二人もすげぇ格好良くて……三人の空気が、なんていうか……」
言葉に詰まる。
“羨ましかった”。
それだけは、どうしても言えなかった。
けれど。
MIUは初めて、柔らかい笑顔を向けた。
「うん。二人とも、すっごいかっこいいの。私の、大好きな人たち」
その笑顔が。
自分へ向けられたものじゃないからこそ、カイの心臓を完全に撃ち抜いた。
あまりに愛おしくて、思わず笑ってしまう。
「……っ、そっか。いいな、それ」
へにゃっと笑う。
「怖い人なのかと、ちょっと思ってた」
「えぇ、そんなことないよ」
「なんか安心した。お姉さん、ちゃんと好きな人たちに愛されてる顔してる」
「……なにそれ」
MIUが少し吹き出す。
「いや、なんかあるじゃん。死にそうな人と、“帰る場所ある”人って」
カイは慌てて手を振った。
「あ、変な意味じゃなくて!」
「ふふ……変なの」
その笑顔を見た瞬間。
カイは、自分もその“特別”の中へ入りたいと願ってしまった。
そのときだった。
「おーおー、カイじゃん。何、いい女連れてんの?」
下品な笑い声。
派手なシャツを崩して着た男たちが、路地を塞ぐ。
美容室の先輩たちだった。
カイの顔が、わずかに強張る。
「……あ、お疲れ様っす。えっと、俺らもう行くんで」
「待てよ。お前にはもったいねーだろ、その子。俺らと遊んだ方が楽しいぜ?」
一人がMIUの手首を掴み、強引に引き寄せようとした。
MIUの瞳へ怯えが走る。
「あ、ちょっと待ってください。マジでこの子ダメなんで……」
いつもの軽い調子で割って入る。
けれど、返ってきたのは拳だった。
「ッ……!」
みぞおちへ重い衝撃が突き刺さる。
身体が折れ、そのまま地面へ膝をついた。
「後輩のくせに口答えすんなよ」
「やめて……っ!」
MIUの悲鳴。
男たちが彼女を囲み、無理やり連れていこうとする。
視界が点滅する。
格闘技なんてやったことない。
喧嘩も強くない。
それでも。
この細い手首だけは、汚されたくなかった。
「待て……っつってんだろ……!」
立ち上がろうとした瞬間。
顔面へ、容赦なく靴底が叩き込まれる。
鼻血が飛び、泥水へ顔が沈んだ。
何度も蹴られる。
意識が遠のく。
──俺じゃ、守れないのか。
そのときだった。
「人の女に、何ベタベタ触れてんだよ」
低い声。
男たちの動きが止まる。
路地の入り口。
二つの影が立っていた。
一人は、煙草を投げ捨てながら殺気を隠そうともしない金髪の男──レン。
もう一人は、冷え切った瞳で男たちを射抜くユウキ。
レンは一瞬で距離を詰めた。
MIUを掴んでいた腕を捻り上げ、そのまま壁へ叩きつける。
「……あ?」
「ひっ……!」
「俺の許可なくこの子に触っていいの、死にたい奴だけだぞ」
拳が、迷いなく顔面へめり込む。
隣ではユウキが、逃げようとした男の首根っこを掴み、そのまま膝蹴りを叩き込んでいた。
圧倒的だった。
歌舞伎町の夜へ慣れきった、“本物”の空気。
男たちは捨て台詞すら吐けず、逃げるように消えていく。
静まり返った路地。
レンは震えるMIUを無言で抱き寄せ、その肩を強く抱いた。
そして。
二人の視線が、泥水へ転がる“異物”へ向く。
「……で。こいつは何だ?」
ユウキが冷たく問いかける。
MIUは涙を拭いながら、必死に説明した。
「えっと……助けてくれたの。ずっと、私を……」
泥水に塗れたカイは、レンへ抱き寄せられるMIUを見て、自嘲気味に笑った。
結局。
守れたのは、自分じゃない。
「……おい。立てるか、虹色」
レンが鼻で笑いながら、無造作に手を差し出す。
カイはその手を借りず、壁へ縋りながら立ち上がった。
口の中へ広がる鉄の味。
それを吐き捨てながら、へらへらした“仮面”を貼り直す。
「……あは、お邪魔虫っすよね。今日はこのへんで──」
ふらつきながら去ろうとした背中へ、ユウキの静かな声が落ちた。
「その顔で歩けばまた絡まれるぞ。俺の店来い。手当てくらいはしてやる」
三人だけだった世界へ。
招かれざる“色”が混ざり始める。
冷たい雨の中。
彼らは連れ立つように、ユウキのBARへ向かっていった。
第11話 ひとり増える夜
ユウキの職場のBARはシャッターが半分下ろされ、看板の灯りもついていなかった。
カウンターの椅子へ座らされたカイは、ユウキから渡された氷嚢を頬へ当て、「痛たた……」と顔を歪めている。
店内には、酒と消毒液の匂いが混じっていた。
「……すみません。あの人たち、俺の職場の先輩で。美容師っす」
カイは腫れ上がった口角で、それでも無理に笑ってみせた。
「もう辞めますけど。あんなダサい奴らの下で働くの、もう御免なんで」
レンはカウンターへ寄りかかり、値踏みするみたいにカイを見る。
「お前、弱すぎんだろ。あんな数人にボコられてさ」
「へへ、そうっすね。俺、強くないんで」
カイはそこで一度言葉を切り、真っ直ぐ三人を見た。
心配そうに自分を見つめるMIU。
彼女を挟んで守るように立つ、レンとユウキ。
その歪で、けれど完成された関係。
「……あの、さっきの二人、めっちゃ熱かったっす。あんなふうに守れたら……かっこよかったんすけど。すみません」
カイは氷嚢を置き、MIUへ向かって深く頭を下げた。
「ほんとに、迷惑かけちゃってすみませんでした」
MIUは慌てて両手を振る。
「なんともなかったし、大丈夫だよ。それに、君が悪いわけじゃないし……」
「えっと、俺……前に皆さんのこと、見たことあって。二人で彼女に、その、キスしてるとこ」
カイの声が、少し震える。
「三人で恋人なんすよね……? たぶん」
それから、勢いよく頭を下げた。
「……あの、俺も、彼女に惚れました。すみません!
何番目の男でもいいんで、仲間に入れてくれませんか!」
レンが一歩踏み出し、カイの襟首を掴み上げた。
雨の残り香と、タバコの匂いが鼻を掠める。
「あぁ? それわかってて仲間に入れろってのは
……ふざけんな。お前みたいなガキが、MIUに触れる資格あんのかよ」
レンの瞳には、容赦のない加害性が宿っていた。
ユウキもメガネの奥の瞳を細め、獲物を解剖するみたいな冷たさで続ける。
「……MIUには、俺たちがいる。お前みたいな軽い奴が入る余地なんて、どこにもない」
さらに襟首を高く引かれ、カイの顔が青ざめる。
心臓は壊れそうなくらい脈打っていた。
けれど。
至近距離で浴びせられる二人の殺気は、この街の誰がくれる愛想笑いよりも“本物”に見えた。
──ああ。かっこいい……。
自分をゴミみたいに扱う二人。
その中心にいる、壊れそうなほど美しいMIU。
あの日、クラブの影でスマホを構えることさえ忘れて見惚れた“地獄の完成形”が、今、目の前で剥き出しになっている。
カイは震える手で、襟首を掴んだままのレンの手を握り返した。
「……軽く、ないっす。俺、あの日からずっと……探してたんです。ずっと……!」
レンの手に力がこもる。
喉が鳴り、呼吸が苦しい。
それでもカイの瞳は、熱を帯びて二人を仰ぎ見ていた。
「やっと見つけて……お姉さん、一人で雨の中にいたから……
俺も……同じだったから。放っておけなくて……!」
レンが鼻で笑う。
「だから何だよ。似てるからって、勝手に踏み込んでいいわけじゃねぇだろ。消えろ」
そのとき。
MIUの指が、レンの手をぎゅっと握った。
小さくて、でも確かな力だった。
「……やめて。……この人を、怖がらせないであげて」
レンの手が、ぴたりと止まる。
ユウキの眉が、わずかに動いた。
MIUの瞳が、ネオンの名残に濡れて光っている。
「……この人、レンくんたちのこと……かっこいいって言ってたよ」
「だ、だからなんだよ」
「私の大好きな人たちだって言ったら、私より嬉しそうに笑ってくれたんだよ」
MIUはカイを庇うように、その傷だらけの身体へ寄り添った。
ボコボコにされて、泥水に塗れて。
それでも必死に自分を逃がそうと手を伸ばしてくれた青年。
その中に、MIUは自分たちと同じ“欠けた温もり”を見つけていた。
「……ずっと、守ろうとしてくれてた。ボロボロになっても
……手を、ずっと伸ばしてくれた」
緊張がほどける。
カイの目から、涙がぽたりと落ちた。
自分を拒絶せず、その存在をレンたちの前で肯定してくれた。
それだけで、これまでの孤独が少しだけ報われた気がした。
「この子は、すっごい、いい子なの……嬉しかったの。だから、いじめないで」
「……MIUがそう言うなら、仕方ねぇな」
レンはようやく手を離す。
「……でも、いきなり仲間に入れろは納得できねぇ」
ユウキは黙っていた。
「わ……」
MIUは、少し目をそらす。
「私は、いいかなって、思った……けど」
申し訳なさそうにうつむいたMIUの鼻の頭が赤くなり、瞳が潤み始める。
レンが目を見開いた。
その様子を、ユウキは静かに見ていた。
レンの奥歯が、ぎり、と鳴る。
「……おい、ガキ。お前、本気なら証明しろ」
ユウキが静かに言葉を重ねる。
「……俺たちは今、シェアハウスを探している。MIUの通院も始まるから、誰かが必ず付き添うことにした。夜も、彼女を一人にはさせない。……お前に、その覚悟があるか?」
レンがにやりと笑って続ける。
「あと、歌舞伎町の家賃は高ぇんだよ。三等分でもキツい。
お前、それくらいの覚悟……あるか?」
カイの目が、ぱっと輝いた。
「……え!? シェアハウス……!?
一緒に住めるんですか!?
俺も、一緒に……!?」
興奮で声が上ずる。
カイはMIUの手を、両手で包み込んだ。
まるで宝物を扱うみたいに。
「俺も守りたいです! あなたのこと!」
MIUの唇が、わずかに微笑む。
レンとユウキは視線を交わし、小さく頷いた。
レンがカイの肩を、どん、と軽く叩く。
「……ま、ちょうどいい。試してみるか。
でもよ、MIUを泣かせたらタダじゃおかねぇからな」
カイは涙目のまま、満面の笑みを浮かべた。
自分を殺し続けて笑う毎日より。
この三人の輪の中にいるほうが、ずっと“人間”になれる気がした。
「……はい! 絶対、泣かせません……」
そこで、カイははっとしたようにMIUを見た。
「MIU……ていうんだ。よ、よろしくお願いします!」
レンはタバコをくわえ直し、小さく笑う。
「……名前も知らねぇで仲間に入れろとか言ってたのかよ」
「……俺はユウキ。こっちはレンだ。お前は?」
カイの顔が、一瞬で真っ赤になった。
「あ、えっと……俺、カイです! カイって言います! よろしくお願いします!!」
第12話 溶けかけの甘さ
歌舞伎町のカラオケボックス。
多色刷りのライトが、安っぽいテーブルの上で回っている。
レンはソファへ深く腰掛け、MIUを自分の腕の中へ囲い込むみたいに座らせていた。
その目は、楽しげなカイや冷静なユウキを見ているようでいて、頭の中では冷徹な“計算”を弾いている。
シェアハウス生活を始めるための計算だけじゃない。
自分がもし逮捕されても、MIUを生活させられるだけの金を残せるか。
そんな最悪の未来まで含めた計算だった。
レンは、自分がプッシャーであることは死んでも口にしないと決めている。
ユウキには「夜の仕事のマネジメント」とだけ濁してあるが、その裏にある危うい橋を、この連中へ渡らせるつもりはなかった。
「……いいか、よく聞け」
レンが低く、重みのある声で場を制した。
「物件はユウキが言ったところで決める。
……カイ。お前も一緒に住むなら、中途半端な遊びは許さねぇぞ」
レンの目が鋭く細まる。
「MIUを一人にするな。俺やユウキが動けないときは、お前がちゃんと見てろ」
ぶっきらぼうな言い方だった。
けれどそれは、“四人の生活”を何より優先する、レンなりの覚悟でもあった。
カイはMIUの膝へ頭を乗せたまま、レンを眩しそうに見上げる。
「わかってますって! 任せてください、本気っすから!」
それから、ぱっと笑った。
「俺の給料も、全部レンさんに預けますよ」
「……バカか。お前は自分の分だけ出しときゃいい。足りねぇ分は俺がなんとかする」
レンは煙草を咥え直し、呆れたように続ける。
「……あと、“さん付け”も敬語もやめろ。キモい」
「それより、部屋に入るなり『膝枕いいですか?』って言ってくる距離感のほうがキモいだろ」
ユウキの言葉に、レンが鼻で笑う。
そのまま乱暴に、カイの虹色の髪を撫で回した。
レンにとって、カイやユウキは“MIUを預けられる数少ない保険”だった。
同時に、自分が守らなければならない“まだまともな側”の人間でもある。
ユウキがメガネを押し上げ、淡々と付け加える。
「……物件の手続きは俺が進める。家賃は三人で割るから、MIUはなにも心配しなくていい」
「ごめんね。カイくん、出会ったばっかりなのに……。ほんとにシェアハウスでいいの?」
MIUが不安そうに尋ねる。
カイはすぐに首を振った。
「俺、今の仕事場辞めるから寮も出たくて、ちょうどいい感じなんです」
それから、目を輝かせる。
「それに、皆さんと一緒なら、毎日が映画みたいに楽しくなりそうじゃないですか」
そこでハッとしたように言い直した。
「……じゃなかった。楽しくなりそうじゃん」
レンが鼻で笑い、MIUの肩を抱き寄せる。
「楽しくなる、だと? めでてぇガキだな」
煙草の煙を吐きながら、低く続けた。
「俺らと一緒にいるってことは、まともな人生を捨てるってことだぞ」
「まともとか、そういうの、ちょっとわかんないんすよね。俺、バカだから」
カイは、あっけらかんと笑う。
その笑顔の奥にある空っぽな瞳を見て、レンもユウキも悟っていた。
このガキもまた、自分たちと同じ“欠落”を抱えた人間なのだと。
MIUがレンとユウキを交互に見つめ、それからカイの虹色の髪を優しく撫でた。
「……四人なら、もっと遠くまで行ける気がするね」
その一言で、個室の空気は決まった。
レンは舌打ちしながら、ハイボールを煽る。
「……好きにしろ。その代わり、余計な真似したら、その虹色の頭引っこ抜くからな」
「わぁ、怖〜い! オッケーです!」
カイは弾かれたみたいに立ち上がった。
狭いソファ。
四人の肩が触れ合い、膝が重なる。
カイは、初対面のときとは別人みたいに伸び伸びしていた。
個室へ、カイが勝手に入れた明るいデュエット曲が流れ始める。
彼はマイクをMIUへ差し出した。
二人で歌う気満々らしい。
「はいはーい! じゃあ会議終了!」
カイがぱん、と手を叩く。
「ほら、レンくんもユウキくんも、そんな怖い顔してないで。せっかく四人で住むんだから、お祝いしよ?」
カイは立ち上がると、テーブルに置かれていた半分溶けかけのソフトクリームを、宝物みたいに四人の真ん中へ置いた。
「これ、みんなで分けよ」
それから、スプーンをすくってMIUへ向ける。
「はい、MIUちゃん。あーん」
MIUが少し驚きながら口を開ける。
甘いクリームが舌へ触れた瞬間、頬が自然に緩んだ。
それを見たカイは、今度はレンへスプーンを向ける。
「レンくんも。甘いもの食べないと、怖い顔そのまま固まっちゃうよ?」
「……んなもん食えるか。どけ」
「えぇー! じゃあユウキくんは? 先生、糖分足りてますかー?」
ユウキはメガネを押し上げ、「俺もいい」と冷たく返そうとした。
だが、カイは「ダメダメ」と笑いながらスプーンを押しつける。
根負けしたユウキが、眉間へ皺を寄せたまま一口食べた。
「……甘すぎる」
「あはは、でしょ?」
カイが嬉しそうに笑う。
「でも、これくらいがちょうどいいって。
たぶん、今まで苦いものばっか食べてきた感じするからさ」
その瞬間。
レンとユウキの間にあった“打算”や“警戒”という壁が、少しだけ低くなった。
レンはため息を吐きながら、乱暴にカイの髪を掻き回す。
「……ガキだな、お前は」
「えへへ、いいもん」
カイはMIUへ身体を預けながら笑った。
「俺、このチームの“弟”になるんだ」
指折り数えるみたいに続ける。
「レンくんが王様で、ユウキくんが参謀で、MIUちゃんがお姫様」
それから、自分を指差した。
「……で、俺がみんなに甘える役。完璧じゃん」
カイがMIUの肩へ頭を預け、甘えるみたいに鼻歌を歌い出す。
一人で全部背負おうとするレン。
理屈で自分を縛るユウキ。
その二人が作れなかった、“ただ楽しいだけの時間”を、カイは軽やかに持ち込んできた。
レンはソファへ深く背を預け、ようやく肩の力を抜く。
MIUは、自分の両隣で繰り広げられる男たちのやり取りを、宝物を見るみたいな目で見つめていた。
四人の影が、安っぽいミラーボールの光の下で、ゆっくり一つに混ざり合っていく。
「……乾杯くらい、しようか」
ユウキがグラスを掲げる。
四人でなければ埋められなかった“隙間”が、初めてカチリと音を立てて繋がった。
第13話 想像してなかった続き
五階の角部屋の扉が、初めて四人で開かれた日。
鍵を回す音が、カチリと響く。
埃っぽい空気が、外のネオンの匂いと混ざりながら部屋へ流れ込んだ。
まだ、何もない。
白い壁に、窓から漏れる青とピンクの光だけが淡い影を落としている。
部屋の真ん中には、キングサイズのベッドが一つ。
白いシーツがわずかに皺を寄せ、まるで「ここで四人で溶け合え」と待っているみたいに静かに息づいていた。
最初に入ってきたのはMIUだった。
少し大きめの黒いトートバッグを片手に、部屋の真ん中へぽつんと立つ。
バッグの中身は、黒のレースミニドレスが二着と下着数枚。
赤いリップと、甘い香りのボディミスト。
それだけだった。
MIUは、ほとんど何も持っていなかった。
空っぽの部屋を映した瞳が、少しだけ虚ろに揺れる。
「……ここが、私たちの……?」
小さく呟き、ベッドの端へそっと腰掛けた。
黒髪が肩へ落ち、ネオンに濡れて光る。
まだ誰も触れていないシーツへ、MIUの細い指が触れた。
布が微かに沈み込み、そこへ彼女の体温がゆっくり染みていく。
次にカイが、両手いっぱいの紙袋を抱えて入ってきた。
「よっ、遅れた〜!」
シューズボックスを玄関へどさっと下ろし、軽い足音を響かせながら部屋へ入ってくる。
その笑顔だけで、部屋の空気が一瞬明るくなった。
袋からは、服が溢れそうになっていた。
ピンクのジャケット。
シルバーのラメ入りシャツ。
黒のレザーパンツ。
キラキラしたアクセサリー。
カイはベッドの反対側へ荷物を置くと、自然にMIUの隣へ腰を下ろした。
「MIUちゃん、これ着てみてよ」
黒地へ金色の刺繍が入ったスカジャンを肩へかける。
白い肌とのコントラストが、妙に綺麗だった。
「カイくん……派手すぎ……」
MIUは笑いながら呟く。
けれど袖をまくる仕草は、少し嬉しそうだった。
レンは静かに部屋へ入ってきた。
持ってきたのは、リュック一つと段ボール一箱だけ。
中身はダーツの矢とボード。
青と紫のネオン管。
灰皿。
それから、ネオン看板らしき小物。
「……これでいいだろ」
低く呟き、窓際へ看板を置く。
『I♡歌舞伎町』。
真っ白だった部屋で、そのピンク色だけが妙に強く主張し始める。
スイッチを入れると、柔らかなネオン光が壁を走り、四人の顔を優しく照らした。
レンはMIUの隣へ腰を下ろし、黒髪を指先で梳きながら囁く。
「MIU……ここが、俺たちの場所だ」
MIUの瞳が潤む。
そっとレンの肩へ頭を預けると、湿った吐息が首筋へ触れた。
最後に入ってきたのはユウキだった。
BARの制服が入ったスーツケース。
シェイカー。
ボトルオープナー。
黒いベスト一式。
それ以外は、寝間着くらいしか入っていない。
「これで全部だ」
ユウキは淡々と荷物を置き、先に配送していた段ボールを玄関先から引き込む。
箱を開け、ワードローブの説明書を広げた。
「よし、組み立てるぞ」
その一言で、四人が工具を手にする。
ネジを回す音が、カチカチと部屋へ響いた。
「これ、俺のピンクジャケット置くスペースも作ってよ」
カイが笑いながら、レンへジャケットを押しつける。
レンは無言で羽織ってみて、
「……悪くねぇ」
と、小さく呟いた。
MIUが頬を赤くしながら見つめる。
「レンくん……似合う……」
レンは照れ隠しみたいにMIUの腰を引き寄せた。
「MIUのほうが似合う」
耳元で囁かれた声に、MIUの身体がびくっと震える。
甘い吐息が、小さく漏れた。
ユウキはスマホを操作しながら、
「……こういう飾り付けなら、ミラーボールもいるな」
と呟く。
そのまま通販サイトで小さなミラーボールを購入した。
「届いたら天井へ吊るそう」
みんなが頷き、自然に笑い合う。
部屋の空気が、少しずつ四人の匂いと体温で満たされていく。
カイの甘い香水。
レンの煙草と汗が混じった匂い。
ユウキのクールなコロン。
MIUの蜜みたいに甘いボディミスト。
それらが混ざり合いながら、キングサイズのベッドへゆっくり沈んでいった。
組み立て終わったワードローブへ、四人の服が少しずつ掛けられていく。
ピンクのジャケットが、レンのジャージの隣へ。
レンの、年中しまう場所がなかった季節外れのダウンが、ユウキのスーツの横へ。
MIUの黒いレースワンピースが、カイのラメシャツへ寄り添うように並ぶ。
季節も趣味も全部バラバラだった。
それなのに、不思議と馴染んで見えた。
四人でベッドへ腰掛け、ネオンに照らされた部屋を見回す。
まだ何もないはずなのに。
もうここが、自分たちの“巣窟”なのだと肌でわかっていた。
MIUがみんなの手を握る。
「……これから、ずっと一緒なんだね……」
震える声だった。
四人の指が絡まり、温度がゆっくり混ざり合う。
部屋の空気が、甘く湿っていく。
まるで、小さなオルゴールを巻き終えた後みたいに。
静かな生活の音が、ゆっくり鳴り始めていた。
窓の外では、誰かの笑い声とサイレンが遠く流れている。
第14話 初夜
シェアハウスの部屋の灯りは落としてあった。
カーテンのない掃き出し窓から、歌舞伎町のネオンが射し込む。
青。
ピンク。
紫。
ゆっくり色を変えながら、四人の影を静かに揺らしていた。
キングサイズのベッドには、四人が並んでいる。
──正確には、三人と、一人。
カイだけが端にいた。
少し距離を置き、身体を固くしたまま。
近いのに、遠い。
心臓がうるさいくらい鳴っていた。
(え……ほんとに、始まっちゃうんだ……)
声に出さず、喉の奥で呟く。
隣では、レンがMIUの髪へ触れていた。
その指先はゆっくりで、迷いがない。
反対側からは、ユウキが静かにMIUの腰を引き寄せる。
言葉はない。
ただ、呼吸だけが少しずつ重なっていく。
MIUの小さな吐息が、湿った熱として部屋へ溶けた。
カイは動けなかった。
見ているだけで胸の奥が熱くなる。
手を伸ばせば届く距離なのに。
それでも、ベッドの端で自分の身体を抱え込んだまま動けない。
三人の吐息が混ざり合い、甘く湿った空気がゆっくり満ちていく。
MIUの小さな声。
レンの低い笑い。
ユウキの静かな囁き。
それらが混ざり合うたび、カイの鼓動は容赦なく早くなっていった。
喉が渇く。
目が逸らせない。
でも、近づけない。
触れたら最後、この壊れそうな関係を、自分が壊してしまう気がして。
そのとき。
「カイくん……」
名前を呼ばれ、肩がびくっと揺れた。
MIUが、まっすぐこちらを見ている。
ネオンに濡れた黒い瞳が、柔らかく光っていた。
「……こっち、おいで」
細い指が、そっと差し出される。
迷ったのは、一瞬だけだった。
でも、その指先があまりにも温かそうで。
カイは震える手で、その指を掴んだ。
触れた瞬間。
体温が一気に流れ込んでくる。
逃げられない。
もう、“外側”にはいられない。
カイはMIUに手を引かれるまま、レンを跨いで彼女の隣へ潜り込んだ。
レンが低く笑う。
「……やっと来たか」
ユウキも静かにカイを見る。
「遠慮はいらない」
その言葉で、最後の逃げ道が消えた。
MIUの手が、そっとカイの腰へ触れる。
軽く触れただけなのに、身体の奥がびくっと跳ねた。
──近い。
近すぎる。
MIUの体温が、こんなにも近くにある。
指先から流れ込んだ熱が、そのまま胸を焼いていく。
呼吸がうまくできない。
視界が黒い髪で埋まり、甘い匂いが逃げ場をなくしていく。
(無理だ……)
そう思ったときには、もう遅かった。
身体の奥が勝手に反応していた。
下腹部が熱く疼き、硬く張りつめる。
慌てて太ももを閉じる。
けれど、もう隠しきれなかった。
レンが先に気づく。
「……隠せてねぇよ」
カイの呼吸が止まった。
視線がゆっくり落ちていく。
もう誤魔化せない。
緊張と興奮で張りつめた熱が、はっきり形を主張していた。
一瞬、沈黙が落ちる。
そして。
ユウキがぽつりと漏らした。
「……おいおい」
珍しく、声に驚きが混じっている。
「ダークホースじゃん」
MIUの瞳も潤み、じっとカイを見つめていた。
頬がぽっと赤くなる。
レンが笑いながら、MIUの耳元へ囁く。
「なんだよ、いいもん持ってんじゃねぇか」
四人の夜は、まだ始まったばかりだった。
第15話 ひとりにした数だけ
歌舞伎町のネオンは、今夜も街を照らし続けていた。
引っ越してきて数日経ったが、掃き出し窓にはまだカーテンがついていない。
淡いピンク色の光が、シェアハウスの床へ落ちている。
雨は止んでいた。
それなのに、湿った空気だけが部屋に残り、薬の甘い残り香と混ざり合っていた。
MIUはソファの隅で膝を抱えていた。
今、部屋には一人しかいない。
今日は、カイと二人で夜を過ごすはずだった。
『仕事が長引いて少し帰るの遅れちゃう! ほんとにごめん』
グループチャットへ入った連絡を、何度も見返す。
そんな日に限って、頭の中はやたらとうるさかった。
自分の存在を、内側から潰そうとしてくる。
指先が冷たい。
爪が掌へ食い込む。
頭の中では、いつもの声がループしていた。
『汚い』
『いらない子』
『生まれてこなければよかった』
母の声。
過去の声。
父の手が降ってくる気がする。
ベルトが空を切る音。
先生の目。
押さえつけられる腕。
景色まで鮮明に蘇り、脳が無理やり“再体験”を始める。
ひとりぼっちの恐怖が、胸の奥を強く締め付けた。
「……だめ、だめ……やめて……」
震える唇から零れた言葉は、自分自身へ向けられたものだった。
手が伸びたのは薬箱だった。
病院で処方された抗うつ剤。
風邪薬。
それから、冷蔵庫の中のストロングゼロ。
「どれか……どれかが、私を救ってくれるよね……?」
最初に飲んだのは抗うつ剤だった。
いつもより多めの錠剤を掌へ乗せ、一気に喉へ流し込む。
苦い。
喉が焼けるみたいだった。
続けて缶を開け、炭酸とアルコールを流し込む。
ごく、ごく、と。
溢れそうな勢いで。
身体が熱くなった。
一度は落ち着いた気がした。
酔いが回ってきている。
けれど。
熱いのに、震えが止まらない。
心臓が早鐘みたいに暴れ始める。
呼吸が浅い。
視界が揺れる。
ネオンの色が滲んでいった。
「……あ……あぁ……」
ソファから滑り落ち、床へ膝をつく。
スマホを掴もうとする。
けれど指がうまく動かない。
「レンくん……ユウキくん……カイく……っ」
名前を呼ぶ声は掠れ、ほとんど音にならなかった。
どれくらい時間が経ったのかわからない。
身体中が固まったみたいだった。
震えながら、浅い呼吸を繰り返す。
意識が、ゆっくり遠のいていく。
そのとき。
玄関の鍵がガチャリと回る音がした。
MIUの身体がびくっと跳ねる。
「たまたま、下のコンビニで会ってさ……」
最初に入ってきたのはレンだった。
金髪が雨に濡れ、ピンクのジャケットから水滴が落ちている。
続いて、眼鏡を拭きながらユウキが入ってくる。
「MIUちゃん、ごめんねー!」
最後にカイが、いつもの明るい声で靴を脱ぎ捨てた。
「MIU!」
三人の声が重なった瞬間。
MIUの瞳から涙が溢れた。
レンが真っ先に駆け寄り、MIUを抱き上げる。
「……っ、冷た……」
肌が、氷みたいに冷えていた。
「MIU、何したんだよ……!」
ユウキが素早く空のシートと缶へ目を走らせる。
「抗うつ剤……いつもより多く飲んだな。酒もか」
カイはMIUの手を握り、その震える指を両手で包み込んだ。
「MIUちゃん……怖かったよね。一人で……ごめん、ごめんね……」
レンはMIUをソファへ横たえ、そのまま膝へ乗せるように抱き寄せた。
濡れたジャケットを脱ぎ、自分の体温を直接押し付ける。
「一人にしてごめん。カイの連絡見たとき、すぐ帰ってくりゃよかった」
MIUの唇が震える。
「……ごめん……なさい……また……壊れちゃって……」
ユウキが冷たいタオルを用意し、額へ当てた。
ゆっくり首筋を撫でながら囁く。
「壊れてなんかない。MIUは、ここにいればそれでいい」
カイは床へ膝をつき、MIUの冷えた足を両手で包み込む。
何度も息を吹きかけた。
「あったかくなるまで、離さないから……約束したのに。守るって……MIUちゃん、ごめん」
「ユウキ、これ、救急車呼ぶやつか!?」
レンの声へ、ユウキが静かに返す。
「酒と抗うつ剤。調べた」
落ち着いた声だった。
「体温調節が乱れてるだけだ。今はまだ、救急車は必要ない」
そう言いながら、優しくMIUの首筋を撫でる。
「……みんなの熱で、ゆっくり戻せば大丈夫なはずだ。MIU、もう怖くない」
時間はかかった。
けれど、MIUの震えと硬直は少しずつ解けていく。
レンの胸へ顔を埋める。
ユウキの指が黒髪を梳く。
カイの吐息が、足の甲へ温かく触れる。
三つの体温が、MIUを包み込んでいた。
ネオンの淡い光が、汗で濡れた肌を静かに照らしている。
「……あったかい……」
レンが額へ唇を押し当て、低く囁く。
「二度とこんな目に遭わせねぇ。一人にさせねぇ。約束、破らねぇから」
カイが足の甲へ愛おしそうにキスを落とす。
ユウキは耳元へ温かな息を吹きかけた。
四つの呼吸が、ゆっくり重なっていく。
雨の残り香。
酒の甘い匂い。
その混ざり合う部屋の中で。
MIUの心臓は、ようやくみんなのリズムへ溶け始めていた。
第16話 慰めきれない夜
薄暗いシェアハウスのソファ。
昨日のMIUのOD事件は、一晩なんとか俺らで温めて、次の日の朝、病院へ連れて行った。
今日もレンが付き添った。
そのレンは今、ソファの前に仁王立ちしている。
背もたれに置かれた「それ」は、まだレンの掌の熱を宿したまま、ぷるんと柔らかく揺れていた。
シリコン特有の、ほんのり人工的な甘い匂いが、部屋の空気にじわじわと溶けていく。
だがその表面は、まるで本物の肌みたいに、触れると体温を返してきた。
最初に手を伸ばしたのはユウキだった。
震える指先が、そっと下から持ち上げるように触れる。
「……っ、あったかい」
吐息が漏れた。
柔肉が指の腹に沈み込んで、ゆっくり元の形に戻ろうとする感触。
まるでMIUの胸を遠くから思い出させるような、甘く切ない弾力。
「けっこう……いいぞ、これ」
ユウキの声が低く掠れ、レンの耳に届く。
レンはニヤリと笑って、ユウキの隣に腰を下ろした。
「だろ? 俺も帰りに店でこれ見つけた瞬間、MIUの代わりにはならねぇけど……って思っちまったぜ」
カイはソファの反対側で、膝を抱えて固まっていた。
レンはユウキ越しにカイを覗き込む。
「カイ」
「……うん」
「怒鳴っちまって悪かったな」
「ううん。だって……俺が……」
ユウキは柔らかいそれを触ったまま、静かに言った。
「カイ。それは違う」
声だけが、部屋へ静かに響く。
「俺たち三人だから、なんとかできるんだ」
「そういうこと。これからは俺でもユウキでも、すぐ電話しろ。絶対なんとかするから」
カイは言葉を返せなかったが、強く頷いた。
「……そういうことだ」
レンは、シリコンを指先で軽く弾いた。
「ほら今はこっちだ。『今夜だけでも埋め合わせしてやろう』って思っちまった」
「これは、かなりいい。これがなかったら俺は今夜、枕濡らしてたかもな」
カイは少し嬉しそうに、それでいて呆れたみたいに笑った。
「MIUちゃんが一日だけ検査入院だからって……限界突破するの早すぎでしょ」
ユウキはシリコンの先端をつまみ、強く引っ張った。
それを見て、レンとカイは吹き出す。
「やめて、ユウキくん」
「そんな乱暴すんじゃねぇよ!」
カイの顔にも、ようやく笑顔が戻った。
レンはカイの隣へ座り直し、肩に腕を回す。
「ほら、カイも味わえよ」
「えぇー……」
そう言いながらも、その視線はもう質感に釘付けだった。
「……あったけぇ、やわらけぇって……マジかよ」
呟きながら、ゆっくり手を伸ばす。
指が沈む瞬間、カイの喉から「あっ……」と小さな声が漏れた。
カイはシリコンを両手で抱き込む。
その柔らかさがMIUを思い出させ、指が勝手に沈む。
だが、昨日見たMIUの震える指先、青白い唇、掠れた「カイくん……」という声が、どうしても頭から離れなかった。
「おいおい、気持ちよすぎてイッちまったのか?」
レンはからかうように、カイの耳へ熱い息を吹きかける。
カイの体がびくりと跳ね、声が裏返った。
「待って待って! そんなすぐ気持ち切り替えできないよ!
MIUちゃんの……あのパニックみたいなの、昨日初めてちゃんと見て……俺、怖かった」
ユウキが眼鏡の奥から静かに見つめる。
「逃げなかったな。それだけで十分だ」
「それな。俺らだって怖ぇーよ」
カイの目に、また涙が滲んだ。
指がシリコンを強く握りしめ、その形が歪む。
「俺……昨日みたいなことにまたなったら、どうしたらいいか……焦っちゃうよ」
レンは落ち込み気味のカイを見ると、すかさず腰を掴んだ。
自分の身体を、背後からグリグリと押しつけるように擦りつける。
「ほら、カイ。安心しろ。MIUがいない分、俺たちが熱くしてやるからさ」
「ギャーッ! 俺には無理っす! ケツの開発ゼロです!」
カイは悲鳴混じりに逃げようとするが、レンの腕はがっちり腰を固定していて、逃げ切れない。
レンはわざとカイの体に手を這わせる。
「こっちは全然柔らかくねぇな……男の脚じゃ、MIUの代わりには程遠い」
そこで、ユウキが静かに呟いた。
「……こういうことも、あるのか」
どこからか取り出した小さな黒いバイブと、透明なローションのボトル。
バイブはまだパッケージに包まれている。
ローションのキャップを外すと、ねっとりした甘い匂いが一気に広がった。
「おまえ! いつの間にそんなもん持ってんだよ!」
レンとカイが同時に吹き出す。
ユウキは無表情のまま、けれど瞳の奥だけを熱く燃やしていた。
「誰か……開発しておくのは、ありかもしれないな」
カイの笑い声が急に上ずる。
「待って待って待って! 俺は無理! 絶対に!!」
だがレンはカイの腰を離さず、逆にユウキの方へ押しやった。
「ユウキ、お前が見本見せろ。その結果が良ければ採用してやる」
ユウキは一瞬だけ目を細め、それから小さく肩をすくめた。
「……なんちゃってな」
その言葉に、レンとカイが同時に吹き出した。
「お前、顔がマジなんだよ!」
「怖い怖い怖い!」
三人の笑い声が、薄暗い部屋へ響く。
けれど。
キングサイズのベッドの奥には、MIUのいない空白だけが、静かに残っていた。
四人で暮らし始めて、まだほんの数日。
それなのにもう、あの黒髪の体温がない夜を、長く感じ始めている自分たちがいた。
第17話 離したくない
MIUが一晩だけの入院から退院して、シェアハウスへ帰ってきた。
迎えに行ったのはレンだった。
玄関を開けた瞬間、待ち構えていた温もりが一気に押し寄せてくる。
「MIUちゃん!!」
カイが真っ先に飛びついてきた。
そして、その後ろからユウキも続く。
「おかえり、MIU」
廊下でカイに抱きつかれ、ユウキに挟まれ、一緒に帰宅したはずのレンまでが背後から腕を回す。
そのまま廊下で、四人ぐちゃぐちゃに抱き合って笑い合った。
MIUが退院する前、男たちはすでに話し合いを済ませていた。
一人にしてしまったことは、お互い責めない。
二度とこんなことがないようにしよう。
そして――俺たちが落ち込んでいたら、MIUが気にして自分を責めてしまう。
だから、今日は笑おう。
「外、出たい」
MIUがぽつりと呟いた。
一晩中、病院の白い天井を見ていたら、外の空気が吸いたくなったらしい。
「寒いだろ」
レンが毛布を引っ張り出し、四人でバルコニーへ出た。
雨は止み、ネオンの残光が濡れた床に淡く反射している。
「毛布はどうせそのうち乾く」
レンはそう言って、濡れた床へ毛布を落とした。
四人でその上へ座り込み、無理やりみたいに肩まで引っぱる。
MIUは当然みたいにレンの足の間へ座り込んでいた。
カイは当然みたいにくっついて、 ユウキだけが「狭い……」と小さくぼやいた。
体にはまだ少し震えの名残がある。
けれど三人の手が優しく撫で、絶え間なく温もりを注いでくれる。
「……俺、ずっとMIUのことばっか考えてた。飯もクソまずかったわ」
レンが耳元で囁き、照れくさそうに視線を逸らす。
MIUの頬が赤くなり、俯いた。
「……ごめん……また、迷惑かけちゃって……」
「迷惑じゃないし!」
カイがMIUの足を自分の太ももへ引き寄せ、息を吹きかけ始める。
「MIUちゃんの足、温めた指がピクンってなって……エッチすぎて俺の心臓がもたなかった。
あれ、俺の今年一番の思い出にするわ」
「カイくん、そんなの思い出にしないで……っ」
MIUが笑いながら足をよじる。
ユウキが眼鏡を直し、静かに口を開いた。
「俺の対処、的外れじゃなかったみたいでよかった。……でも次からは、抗うつ剤とストロングゼロのコンボは禁止な。命に関わる危険なカクテルは、俺のバーじゃ出せない」
MIUがぷっと吹き出した。
「……笑えないメニューできちゃった」
「言ってから気づいた」
ユウキがかすかに口元を緩める。
「『酒鬱カクテル、オンザロックで』なんて注文されたら、周りの客がみんな帰るよな……」
レンが腹を抱えて笑い出した。
「新メニュー決定じゃん。店名『Bar 鬱シェイク』で」
「なんで店名まで変わった?」
「俺は!」
カイが勢いよく手を挙げる。
「MIUちゃんの足温めサービス、正式に担当へ立候補します! 毎晩やらせてください!」
「カイ、うるさい」
「うるさくないし! 愛情表現!」
MIUは恥ずかしそうに三人の肩を順番に小突いた。
けれど全然力が入っていなくて、ただの甘えになっていた。
「もう……みんなひどい……」
でも、その声はずっと笑っている。
「……こんなの、本当はいけないことかもしれないけど……
みんながいっぱいくっついてくれるの、笑っちゃうくらい幸せだった……」
ユウキがMIUの髪を優しく梳きながら、静かに言った。
「笑っていいよ。重い夜も、こうやって笑いに変えられるなら……俺たち四人、続けていける」
バルコニーの向こうで、歌舞伎町の朝がゆっくり動き出す。
ネオンが薄れ、雨の残り香が甘く漂う中、毛布にくるまった四人の笑い声が小さく響いた。
MIUの震えは、もう恐怖から来るものではない。
みんなからもらった愛の余韻で、優しく、ただ震えているだけだった。
第18話 初恋の温度
朝のシェアハウスは、まだ雨の残り香と秋の空気が混ざり合っていた。
キングサイズのベッドの上。シーツは四人の体温でくしゃくしゃに乱れたままだ。
カイの派手なシャツとレンのネオンライトのコードが床に落ち、部屋の隅ではユウキの眼鏡が朝陽にきらめいている。
MIUはカイの服である薄いタンクトップ一枚でキッチンに立ち、コーヒーを淹れていた。
後ろから近づいてくる気配。
振り返るより先に、背中へ熱が触れた。
「……ユウキくん?」
ユウキは無言でMIUの腰へ腕を回し、額を肩へ預ける。
いつものクールな吐息が、今日は少しだけ震えていた。
眼鏡を外した素顔が、耳の後ろへ熱く押しつけられる。
「……カイとレン、出かけたな」
低い声。
いつもより、少し掠れている。
MIUが小さく頷くと、ユウキの指がタンクトップの裾をゆっくり捲り上げ、素肌へ触れた。
冷たい指先が、少しずつ体温を帯びていく。
「……っ」
それだけで、体がびくりと跳ねた。
いつもは冷静にMIUを抱くユウキの呼吸が、今日は耳の後ろで乱れている。
ユウキは無言のままMIUをくるりと自分の方へ向かせた。
眼鏡を外した素顔が近づく。
黒髪の隙間から覗く瞳は、いつもよりずっと真剣で――けれど、その頬はゆっくりと赤く染まっていった。
「MIU……」
名前を呼ぶ声が、喉の奥で震えている。
MIUはその顔を見て、急に自分の頬まで熱くなるのを感じた。
体はもう何度も知っているはずなのに。
こんなふうに真正面から見つめられると、まるで初めて恋をしたみたいに胸が苦しくなる。
「……俺、ちゃんと伝えてなかった」
ユウキの顔は耳まで真っ赤になっていた。
クールなバーテンダーの仮面が、完全に剥がれ落ちている。
指がMIUの腰をぎゅっと掴んだまま、視線を少し逸らし、それからまた勇気を出したみたいにMIUを見つめた。
「好きだ。MIU」
一瞬、部屋の時間が止まった気がした。
MIUはぱちぱちと瞬きを繰り返し、言葉が出てこない。
耳の先まで熱くなっているのが、自分でもわかった。
「雨に濡れてBARに来た夜から……本当は、お前を誰にも渡したくなかった」
ユウキの声が少しずつ小さくなる。
それでも、腰を抱く腕だけは離れない。
二人の胸が触れ合い、心臓の音がぶつかり合った。
「俺……ちゃんと、好きだって言いたかったんだ」
ユウキは唇を軽く噛み、照れくさそうに目を伏せた。
まるで告白するのが初めての男の子みたいだった。
MIUも同じだった。
嬉しいのに、嬉しすぎて、うまく息ができない。
指先が震えて、ユウキのシャツの裾をぎゅっと握りしめる。
「……私も」
声が少し上ずった。
MIUは慌てて口元を押さえ、それから勇気を出してユウキを見上げる。
「私も……ユウキくんのこと、好き。こんなふうに言われると……照れちゃうけど」
その瞬間、ユウキの表情が柔らかく崩れた。
愛おしさを堪えきれないみたいに、目が細められる。
「好きだ。何から始まった関係かもわからない。でも俺は、たぶん、最初から……」
その瞬間、ユウキの唇がMIUへ重なった。
いつもは冷静に反応を観察しながら与えるキスが、今日は少し乱暴で、必死だった。
甘い音が、朝の静かな部屋へ響く。
MIUの背中へ回された手が、震えながらシャツの下の素肌を強く撫でた。
「ん……ユウキくん……」
MIUが小さく喘ぐと、ユウキはさらに深くキスを貪りながら、そのままMIUを抱き上げてベッドへ押し倒した。
シーツの上へ、ユウキの体が覆い被さる。
眼鏡を外した素顔が朝陽に照らされ、普段見せない幼さと熱を晒していた。
「レンやカイがMIUに触れてるの、最初は苦しかった……」
ユウキの指が、MIUの太ももをゆっくり這い上がる。
「でも今は、それ以上に……MIUが溶けていく顔も、仕草も、全部好きでたまらないんだ」
指先が敏感な場所を優しく撫でる。
「……ちゃんと、愛してるって伝えたかった。言葉で。体で。全部で」
湿った吐息が、MIUの首筋へ落ちた。
真っ赤な頬のまま、ユウキが耳元で囁く。
「……好きだよ、MIU。これからも、ずっと……」
二人きりの朝は、甘く溶け合うようにゆっくり深まっていった。
◇
その数時間後――。
リビングには、歌舞伎町のネオンの光が差し込んでいた。
MIUはまだ朝の余熱を頬へ残したまま。
カップへ触れるたび、ユウキとのキスの感触が蘇ってしまう。
ユウキはソファの端へ浅く腰掛け、何度も眼鏡を直しながら視線を逸らしていた。
二人とも、朝の照れがまだ肌へ張りついている。
目が合うたび、また熱がぶり返した。
すると、レンがキッチンの入り口へ寄りかかり、ニヤニヤしながら目を細める。
「へぇ……お前ら、なんかあったろ?」
一瞬、部屋の空気が甘く張りつめた。
MIUは真っ赤になったまま俯いてしまう。
ユウキの耳までみるみる赤く染まり、眼鏡の奥で瞳が泳いだ。
カイが目を丸くする。
「え、なになに!? なんかあったの!?」
その横で、レンは満足げに笑いながらMIUの腰へ腕を回してきた。
熱い掌がタンクトップ越しに腰のラインをなぞる。
吐息が耳へかかり、首筋が小さく震えた。
そしてレンは、ユウキへ向かってゆっくり意味深にウインクする。
午後の光の中で、その仕草だけがやけに妖しく見えた。
「ま、いいけどよ。真っ赤なその顔、めっちゃ可愛いぜ、MIU……」
低い声と一緒に、唇が耳たぶへ軽く触れる。
一瞬だけ残った感触に、MIUは小さく身をよじった。
ユウキは照れ隠しみたいにクッションを抱きしめ、小さく舌打ちする。
けれど耳の赤さだけは、どうしても隠しきれていなかった。
その視線が、MIUとレンを交互に見つめる。
嫉妬と甘い疼きが、まだ消えていない。
MIUは胸の奥がくすぐったくて、嬉しいのに恥ずかしくて、
ただ小さく微笑むことしかできなかった。
この朝の甘い秘密は、なんとか秘密のままでいられたのだった。
第19話 やわらかすぎる居場所
シェアハウスを始めて数日。まだ段ボールが転がる未完成のリビングを見て、
レンが「よし、例のブツを買いに行くぞ」と号令をかけた。
向かったのは、色鮮やかな巨大クッションが並ぶショップだった。
MIUは店内に一歩足を踏み入れた瞬間、子供みたいに声を弾ませる。
「わあ……! 本物だ、いっぱいある!」
真っ先に、鮮やかなフラミンゴ・ピンクの巨大クッションへ飛び込み、そのまま沈み込んだ。
「んふふ、すごい! 溶けちゃう……! 私、絶対このピンクがいい!」
「MIUちゃん、めっちゃ似合ってる! 苺のアイスみたい」
カイがへらへら笑いながら、隣のビタミンオレンジのクッションを叩く。
「俺はこれ! 元気出そうじゃん?」
ユウキは少し離れた場所で、落ち着いたディープブルーのクッションを見つめた。
「……俺は、これかな」
静かに呟く。
そこでユウキは、腕組みをして三人を見ているレンへ視線を向ける。
「レン、君のはいいのか? まだグレーやブラックもある」
レンは鼻を鳴らし、MIUが埋もれているピンクのクッションを横目で見た。
「……いや。このデカさなら三つありゃ全員座れるだろ。俺の分はいらねぇよ」
「……合理的じゃないな。四人いるんだから、四つあった方がいい」
「普通のソファも買ったじゃねぇか。それが空くだろ、もったいねぇ」
ユウキが怪訝そうに目を細めるが、レンは知らんぷりでMIUの頭を撫でた。
レンの頭の中には、明確な「策」があった。
自分のクッションがなければ、自然とMIUの隣、そのピンクの柔らかい隙間へ身体をねじ込む口実ができる。
独占欲を、「節約」という薄い皮で包んで隠し持っていた。
「いいから今日はこの三つだ。ほら、運ぶぞ」
レジを済ませると、歌舞伎町でも一際目立つ集団が出来上がった。
金髪のレンを先頭に、高身長のユウキ、中性的なカイ。
そしてその中心で、幸せそうに笑うMIU。
大柄な男たちが、自分たちの胴体ほどもある巨大クッション――ピンク、ブルー、オレンジを抱えて歩く姿は、どこか滑稽で、それなのに奇妙なほど幸福に満ちていた。
「これ、家に着いたらすぐ並べようね!」
「MIUちゃん、オレンジのも貸してあげるからねー」
抱えたクッションの柔らかさと、MIUの明るい笑い声。
信号待ちの最中、ユウキはふと、自分たちが抱えているのはクッションではなく、ようやく手に入れた「壊れやすい安らぎ」そのもののような気がした。
四人の足取りは、夕暮れの街へ軽やかに吸い込まれていった。
◇
カイが威勢よくドアを蹴開け、両手に抱えたオレンジの巨大な物体をリビングの真ん中へ放り出した。
ユウキとレンも、それぞれブルーとピンクを床へ下ろす。
MIUは靴を脱ぐのももどかしい様子で、念願のフラミンゴ・ピンクのクッションへ飛び込んだ。
「んんっ……あぁ、幸せ……!
本当に沈んじゃう……。みんな、私もうここから一生動かないからね」
顔半分を埋めたまま、とろんとした目で見上げてくる。
その無防備な姿に、レンが苦笑しながら歩み寄った。
「おいおい、まだ早いぜ。沈むのは食ってからにしろ」
「え……?」
「コンビニで食いもんと飲みもん買い込んで、これからパーティだ!」
カイがMIUの両脇へ手を入れ、ひょいっと抱き立たせる。
MIUは宙に浮いた足をパタパタさせながら、驚きに目を丸くした。
「パーティ……!?」
「ああ。MIUの夢が一個叶った記念だからな」
ユウキが自然な動作で、MIUの華奢な手を取る。
その静かで体温のある掌に、MIUの胸が小さく跳ねた。
「コンビニにあるものなら、どれを選んでもいい。お菓子もアイスも、普段なら買わないような贅沢なやつも全部だ」
「全部……? ……いいの? 本当に?」
MIUの声が少しだけ震える。
これまでの人生、彼女が何かを「選ぶ」ときは、常に誰かの機嫌を伺うか、生き延びるために最低限を選ぶしかなかった。
レンが彼女の頭を乱暴に、けれど慈しむみたいに撫でた。
「当たり前だろ。俺らの姫さんがお望みならよ。ほら、行くぞ」
◇
歌舞伎町のコンビニは夜でも相変わらず騒がしかった。
けれど今のMIUには、そこが魔法の宝物庫みたいに見えていた。
「よし、カゴ担当は俺な!」
カイが入り口でカゴをひったくり、MIUの背中を軽く押す。
コンビニの白い光が、四人の髪や肌を無機質に照らしていた。
けれど彼らが棚から手に取るものは、驚くほど色鮮やかだった。
「MIU、ほら、今度こそ食ってみろよ」
レンが棚の奥から無造作に掴み取ったのは、わさびの効いた柿の種。
「うわ、レンくんまたそれ? 鼻ツーンってするやつじゃん」
「これがいいんだよ、酒が進む。……あ、ほらMIU、お前はこっちだろ」
レンは、自分の辛党とは真逆の、生チョコ仕立てのアイスやクリームたっぷりのエクレアを次々とMIUへ差し出す。
MIUは「あ、それも! あと、この期間限定のグミもいい?」とはしゃぎながら、カゴの中を甘いお菓子で埋めていった。
「MIUちゃん、お菓子ばっかじゃん! 体に悪いよー」
カイはへらへら笑いながら、ホットスナックコーナーへ向かう。
「これこれ。唐揚げと、シュウマイもみんなでつまめるじゃん。あ、カルビ弁当は俺の~」
育ち盛りみたいなチョイスで、カイはカゴへ「食事」の重量感を足していく。
一方、ユウキは酒類コーナーで足を止めていた。
「……アルコール度数、調整できた方がいいな。MIUにはこれを」
ユウキが手に取ったのは、カルーアのリキュールと牛乳。
「リキュールと割り材を買えば、家でも店と同じ味が作れる。あとはレン。お前のわさびに合うように、少しキレのあるウイスキーも選んでおいた」
バーテンダーらしい手際で、お酒と、それを割るための炭酸水や牛乳をスマートに選んでいく。
「わぁ、ユウキくんが作ってくれるの? 楽しみ……!」
「ああ。君の好きな甘さに調整しよう」
ユウキが穏やかに微笑むと、レンが少しだけ面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「おいカイ。そんな詰め込むとカゴ重くてMIUが持てねぇだろ」
「あはは! 運ぶのは俺ら男子の役目っしょ!」
甘いもの、辛いもの、酒、そしてガッツリした飯。
バラバラな四人の好みが、一つのカゴの中でぐちゃぐちゃに混ざっていく。
「……ねえ、これ全部買っていいの? 本当に?」
レジ前で、MIUが少し不安そうにレンを見上げた。
レンはレジ袋を広げながら、当然みたいに頷く。
「言ったろ。MIUの夢が一個叶った記念だ。全部持って帰って、全部食うんだよ」
レジ袋の中で、牛乳と缶がぶつかって小さく鳴った。
その音だけで、なぜか少し笑えた。
◇
四つの重たいレジ袋をぶら下げて、四人は再び夜の街へ踏み出した。
袋の中で揺れる唐揚げの匂い。お菓子の擦れる音。MIUの笑い声。
それらを抱えたまま部屋へ戻り、三つのビーズクッションを連結させるように並べる。
その上へ、四人で折り重なるように座り込んだ。
テーブルの上には、コンビニとは思えないほど豪華で、少しジャンクな宴が広がっている。
「よし、それじゃ。……俺らのどうしようもねえ生活に仲間入りした、ビーズクッションに」
レンが缶を高く掲げた。
「「「「かんぱーい!」」」」
アルミの弾ける音が重なる。
MIUの口いっぱいに、甘い酒とジャンクな幸福が広がった。
ピンク、ブルー、オレンジ。
レンはクッションがないのをいいことに、当然みたいにピンクの縁へ腰掛け、MIUを腕の中へ囲い込む。
「……ねえ。私、本当に幸せすぎて、明日死んじゃうんじゃないかな」
MIUがぽつりと零した言葉に、ユウキが冷えた缶を彼女の頬へ当てながら静かに返した。
「死なせない。明日も、明後日も、このクッションはここにあるから」
MIUは頷き、三人の温もりに挟まれながら、
初めて「眠るのがもったいない」と思う夜を過ごしていた。
第20話 隠してきた宝石
パーティーの翌朝、シェアハウスはひどく静かだった。
大きな掃き出し窓から差し込む光が、空気中に舞う埃をきらきら照らしている。
キングサイズのベッドでは、四人が絡まり合うように眠っていた。
その中心で、MIUはまだ夢の中にいる。
「よし……。MIUちゃん、おはよ」
最初に動いたのはカイだった。
彼は明日、新しいヘアサロンでの初出勤を控えている。
緊張で強張った指先をほぐすように、寝ぼけ眼のMIUを鏡の前へ座らせた。
鏡の中のMIUは、まだ昨夜の熱を帯びたまま、とろんとした瞳で自分を見つめている。
カイは大きなメイクボックスを開いた。
カチャリ、という金属音が、小さな聖域の鐘みたいに響く。
「今日は特別な日だから。俺が、世界で一番可愛くしてあげる」
カイの細い指が、MIUの黒髪へ触れる。
アイロンの熱。オイルの甘い香り。
カイにとって、MIUの髪を整える時間は、自分自身の不安を塗り替えるための儀式でもあった。
鏡越しに目が合うたび、MIUがくすぐったそうに笑う。
その笑顔が、カイの細い背中をそっと押した。
「……できた。MIUちゃん、めっちゃ可愛い。これなら、俺も大丈夫だ」
自分を鼓舞するみたいに呟いた、その背後から。
「おーおー。朝っぱらから見せつけてくれるじゃねぇか」
低い笑い声が落ちてくる。
レンだった。
寝癖のついた金髪を掻き上げながら、気怠そうに現れる。
その隣には、既に完璧に身支度を整え、全員分のコーヒーを淹れているユウキがいた。
「レン、そんなに睨むな。カイの腕は確かだ」
「わかってんだよ……。でもよ、こんなにMIUを可愛くしやがって」
レンは舌打ち混じりにMIUを見つめる。
「……おいカイ。前みたいに変なのに絡まれたら、命張って守れよ。いいか?」
レンは、おめかししたMIUとの「デート」の権利をカイへ譲ったことを、少しだけ引きずっているようだった。
仕事へ向かう間際、レンはMIUの腰をぐいっと引き寄せ、その首筋へ深く鼻を埋める。
「……行きたくねぇ。危ないことすんなよ」
「うん。レンくん、いってらっしゃい」
MIUの甘い声に、レンは毒気を抜かれたみたいにため息をつき、ジャージのポケットへ手を突っ込んだまま部屋を出ていった。
ユウキもまた、静かな視線をMIUへ向ける。
「夜、店で待ってる」
それだけ言って、ユウキはまたベッドへ倒れ込んだ。
夜の出勤までは、まだ少し時間があった。
再び微睡みにのまれながら、視線だけでぼんやりと二人を見送った。
◇
初めての、カイとMIUの二人きりの外出。
歌舞伎町の喧騒の中、カイはMIUの細い手をぎゅっと握りしめていた。
レンに言われた「命を張る」という言葉が、重たい鉄塊みたいに胸へ居座っている。
自分はレンみたいに喧嘩が強いわけじゃない。
けれど、この握った手の温かさだけは、絶対に離したくなかった。
「……あ、ゲーセン行こ!」
MIUが指差したのは、かつて彼女がストゼロを転がして絶望していた、あのゲームセンターだった。
UFOキャッチャーの前へ立った瞬間、MIUの瞳の色が変わる。
「見てて、カイくん」
軽やかな指捌きで、アームが獲物を捉える。
「え、MIUちゃんすご!」
一つ。
また一つ。
MIUは魔法使いみたいに、次々と景品を釣り上げていった。
けれど彼女が狙うのは、決まって手のひらサイズの小さなぬいぐるみや、安っぽいキーホルダーばかりだった。
「MIUちゃん、すごいけど……もっと大きいのにしなくていいの?
奥のあのデカいクマとかさ」
カイの問いに、MIUの動きがふっと止まる。
彼女は取れたばかりの小さな猫のぬいぐるみを愛おしそうに撫で、その布地をぎゅっと握りしめた。
「……大きいのは、隠せないから」
「え?」
「家だとね、お父さんに見つかっちゃうから。ああいうの、ダメだったんだ。
『俺が金出して借りてる家だ』って、『変なもの持ち込むな』って、全部捨てられちゃうの」
MIUの黒い瞳が、UFOキャッチャーのネオンを虚ろに反射する。
「だから、いつもポケットに入るくらいの小さなものだけ、隠してたんだ」
家は、安らぐ場所じゃなかった。
怒鳴る父。
父に怯え、そのストレスを娘へぶつけることでしか自分を保てなかった母。
「……家から逃げてきて、夜でも明るいここに来た時、私、ちょっと安心したんだ」
MIUは静かに言う。
「行く宛のない子が、私以外にもいっぱいいるでしょ。
ここなら、誰にも見つからないで済むかもって」
歌舞伎町。
ゴミ溜めみたいな街で、MIUが見つけたのは「自由」ではなく、「埋没」だった。
カイは、MIUの細い肩が微かに震えているのを見逃さなかった。
レンやユウキがMIUの「壊れた部分」を愛しているなら。
自分は彼女の「失われた子供時代」を抱きしめたいと思った。
「MIUちゃん」
カイは、彼女が取った山みたいな小さな景品を、自分のバッグへ詰め込む。
「これからは、隠さなくていいよ」
虹色の髪が、ゲームセンターの光を反射して揺れる。
「……シェアハウスの壁、全部MIUちゃんのぬいぐるみでいっぱいにしよう。
大きいのだって、もう持ってても大丈夫だよ」
そして、へらっと笑った。
「レンくんに怒られたら、俺が『アートだから』って言い返してあげる」
その言葉に、MIUは一瞬驚いたように目を丸くした。
それから、今日一番の笑顔を見せる。
「……うん。いっぱいにしたい」
小さなぬいぐるみを胸へ抱きしめながら、MIUは照れたように笑った。
「……カイくん、大好き」
カイの心臓が、どくんと大きく鳴る。
二人は、小さな戦利品を袋にいっぱい詰め込んで、四人の「家」へ帰り始めた。
街の視線は、きっと彼らを「奇妙なもの」として見るだろう。
それでも。
カイの胸の中には、明日からの仕事へ立ち向かえるだけの、
ささやかで強固な「宝石」が、確かに灯っていた。
第21話 止まった光の中で
昼過ぎのシェアハウスは、海の底みたいに静まり返っていた。
キングサイズのベッドの上では、夜の仕事に備えてユウキが深い眠りに就いている。
その隣で、レンが気怠げにスマホをいじり、MIUは彼の腕の中に収まってうとうとしていた。
その静寂を破ったのは、けたたましいインターホンの音だった。
「……あ、届いた!」
MIUが弾かれたように起き上がる。
届いたのは、引っ越し初日に注文していたミラーボール。
そしてもう一つ。
レンが「絶対に必要だ」と言い張って選んだ、一番厚手の遮光カーテンだった。
「見て、レンくん! すっごいキラキラ」
「おー、意外と本格的じゃねぇか。……おい、先にこっちのカーテン付けちまおうぜ」
レンが、窓から差し込む午後の光を忌々しげに睨みながら言った。
今までこの部屋には、
前の住人が残していった薄汚れたレースカーテンが一枚かかっているだけだった。
外からはバルコニー越しに歌舞伎町の雑居ビルが見え、こちら側の生活も薄らと透けていた。
「これがあれば、もう外のゴミみたいな景色も見なくて済むし、
俺らが何してても誰にもバレねぇ。ここが俺らの世界の果てだ」
レンが不器用な手つきで、真っ黒なカーテンをレールへ滑らせていく。
一枚、また一枚と闇が窓を覆い、外の世界が切り取られていく。
最後の一枚を閉め切った瞬間、部屋は完全な夜へ沈んだ。
「……」
MIUはしばらく、その暗闇を見つめていた。
「……暗いね」
「だろ? 外から何も見えねぇ。完璧だろ」
「……なんか、狭くない?」
「あ?」
「部屋、ちっちゃくなった気がする。息苦しいというか……」
MIUが眉をひそめ、くるりと部屋を見回す。
「壁みたいじゃん、これ。なんか、閉じ込められてる感じ」
レンが絶句した。
「……お前、俺が選んできたんだぞこれ」
「うん。でも……やっぱり、外の光が少し入ってるくらいの方がよくない?」
「よくない。外から見えんだろが」
「レースカーテンあるじゃん、前の」
MIUは迷いなく遮光カーテンを端へ寄せ始める。
レンが止めようとするが、MIUはもう、前の住人が残していったくたびれたレースカーテンをレールへ戻し始めていた。
「……お前な」
「ほら、これくらいがちょうどいい。ねえ、レンくん」
レースカーテン一枚越しに、歌舞伎町の雑居ビルがぼんやり滲んで見える。
午後の光がやわらかく濁って、部屋へ差し込んでくる。
レンはしばらく黙って、その光を見ていた。
「……まあ。悪くはねぇな」
悔しそうに、けれどどこか納得したように認める。
二人はミラーボールの取り付けへ移った。
「どこにつけるの?」
「そりゃあ、ここしかないだろ」
ターゲットはキングサイズのベッドの真上。
そこには、ユウキがまだ微動だにせず眠っている。
「ユウキくん、起きちゃうよ?」
「大丈夫。こいつは一度寝りゃ死んだも同然だから」
ユウキが眠るすぐ横で、レンは器用にベッドの縁へ足をかけ、ドライバー片手に天井へネジを突き刺していく。
ミラーボールを吊るそうと手を伸ばした、その時だった。
「……あ、やべ」
ガチャン。
嫌な音と共に、ミラーボールが重力へ従って落下した。
落ちた先は、運悪くユウキの後頭部だった。
「…………ッ」
数秒の沈黙。
そのあと、地を這うみたいな低い声が響いた。
「……何、やってる」
ユウキがゆっくり起き上がる。
寝起きの頭を片手で押さえ、鋭い視線でレンを射抜いた。
「わりぃわりぃ。手が滑った。あぶねぇ、プラスチックの軽いやつでよかったな」
「笑い事か……死んだかと思った」
ユウキはため息をつき、頭を擦りながらも立ち上がる。
四人の中で最も背が高いユウキが立つと、その指先は悠々と天井へ届いた。
「貸せ。俺がやる」
ユウキは手際よくミラーボールを固定し、電源を入れる。
しかし、本来くるくる回るはずのミラーボールは、ぴくりとも動かなかった。
落下の衝撃で、モーターが壊れてしまったらしい。
「……回んねぇな。ハズレか?」
「まぁいいじゃん。キラキラしてるのは変わんねぇし」
レンがスイッチを切り替えると、ミラーボールの表面が数色の光を跳ね返した。
レースカーテン越しに差し込む午後の光と、静止したミラーボールの反射が混ざり合い、部屋の中へぼんやりした斑模様を作る。
寝起きのユウキ。
笑うレン。
そしてMIUの白い肌を、柔らかく染め上げていく。
「……」
ユウキが、その光の中で端へ寄せられたカーテンを見た。
「遮光カーテンは?」
「MIUに却下された」
レンが淡々と報告する。
ユウキは少し考えてから、「……まあ」と呟いた。
「ビルの隙間の太陽で起きて、夜はネオンの光で過ごす。それも悪くなかったしな」
昼夜逆転しているユウキにとって、太陽が出ていようが爆睡できるのは元から変わらない。
それでも、この街から差し込んでくる光と共に生活が動いていく感覚を、気に入り始めていたところだった。
「回らねぇミラーボールに、くたびれたレースカーテン」
レンが開き直ったみたいに笑う。
「いかにも俺らっぽくていいじゃねぇか」
MIUも「そうだね」と、くすくす笑い出した。
レンは冷蔵庫から酒を取り出し、天井へ張り付いたまま動かない光を見上げる。
「今日はミラーボール・パーティーだな。カイ、帰ってきたら驚くぜ」
ユウキが出勤するまでの短い時間。
歌舞伎町の光がレースカーテン越しに滲む部屋で、三人は再び身を寄せ合った。
回らない光の下で。
第22話 洗い流せない匂い
「……やだ。行きたくない」
キングサイズのベッドの海へ深く沈み込み、MIUが毛布を被って抵抗する。
今日は二週間に一度の通院日。
精神科の、あの独特の消毒液の匂いと白い壁は、いつだって彼女の心を重くした。
「おい、駄々こねんな。ほら、起きろ」
「レンくん、無理やりはダメだよ。
……MIUちゃん、これ、俺のスウェット貸してあげるから。これ着て頑張って行こう?」
レンが足首を掴んで毛布から引きずり出そうとし、
カイが柔らかいグレーのスウェットを広げてなだめる。
ユウキは無言で、通院ポーチへ診察券とお薬手帳、それにMIUが落ち着くためのタブレット菓子を詰め込んでいた。
歌舞伎町の夜を彩る黒レースのミニドレスは、白昼の待合室には少し毒が強すぎる。
カイの大きめのスウェットに包まれたMIUは、まるで保護されたばかりの小動物みたいだった。
「……じゃあ、行ってくる」
レンが半分寝ぼけているMIUの肩を抱き寄せ、部屋を出る。
不器用ながらも「俺が連れていく」と名乗り出たレンの背中は、どこか誇らしげだった。
◇
残されたのは、山みたいな洗濯物と、カイとユウキ。
「さて……俺らも仕事すっか」
二人はあの巨大な青いビニールバッグへ四人分の洗濯物を詰め込み、一階に併設されたコインランドリーへ向かった。
昼下がりのコインランドリーには、誰のものでもない無機質な時間が流れている。
洗濯機が回り始めると、重い水音と柔軟剤の甘い香りが狭い室内へ満ちた。
二人は並んでプラスチックの椅子へ腰かけ、回転する洗濯槽をぼんやり眺める。
「……MIUちゃんの服、全然ないよな」
カイがぽつりと呟いた。
「ああ。あのドレス以外、まともな私服を持ってなかったからな。
今は俺たちの服を適当に着回してるが……」
「今度、みんなで買いに出かけてもいいよな。……あ、でも実はさ」
カイが少しだけ顔を赤くし、視線を泳がせた。
「俺、こないだ仕事の合間に、MIUちゃんに似合いそうなワンピース見つけて
……つい買ってきちゃったんだよね」
「ほう。どんなのだ?」
「いや、それがさ。……いざ買ってみたら、すっごい自分の趣味が出ちゃってて。
なんか渡すの恥ずかしくてさ。棚の奥に隠しちゃってるんだ」
ユウキは少しだけ口角を上げ、鼻で笑った。
「どうせすぐ見つかるぞ。洗濯物も、しまう場所も一緒なんだから。
……隠しておく方が余計に怪しまれる。今のうちに出しておけ」
「……そうだよな。どうせバレるよな」
洗濯機がガタガタと音を立て、脱水工程へ入る。
「まだ時間あるし、部屋戻って見せてみろよ。
センスが良ければ、俺からも渡すのを手伝ってやる」
「ちょ、ユウキくん! やめてよ、恥ずかしいって言ってるじゃん!」
「ほら、行くぞ」と立ち上がるユウキと、真っ赤になって拒むカイ。
洗濯が終わるまでの僅かな時間。
レンとMIUが不在の部屋で、二人の男は、これから贈る「新しい服」と、それを着て笑う彼女の姿を想像しながら、騒がしく階段を駆け上がっていった。
光を遮らないレースカーテンに囲まれた四人の生活は、少しずつ、けれど確実に、誰にも邪魔されない色へ染まり始めていた。
◇
──数時間後。
ユウキがBARの夜勤へ出掛け、部屋にはカイが一人、コインランドリーから回収したばかりの温かい洗濯物を畳んでいた。
そこへ、ガチャリと鍵の開く音がする。
「ただいまぁ、カイくん!」
玄関から聞こえてきたのは、予想に反して弾んだMIUの声だった。
通院の後はいつも、魂が抜けたみたいに泥のように眠るか、ひどく落ち込むのが常だった。
カイは驚いて手を止め、二人を出迎える。
「おかえり! ……えっ、MIUちゃん?
なんか今日、めちゃくちゃ機嫌よくない?」
「えへへ、わかる?」
MIUは何か大切な宝物を隠している子供みたいに、唇の端を吊り上げてにやついている。
隣に立つレンは「俺には何も教えてくれねぇんだわ」と、面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「なになに、なんかいいことあったの?」
「これ見て」
MIUが差し出してきたスマホの画面。
そこには、ユウキからのLINEが表示されていた。
『病院がんばったら、カイから特別なプレゼントがあるぞ。内容はカイにきいてみな』
「…………ッ!!!」
カイの顔が、一瞬で茹で上がったみたいに赤くなった。
やられた。
「あ、えっと、これは、その……!」
「おいカイ、お前、俺のいねぇ間に何準備してんだよ。見せてみろよ」
レンまでがニヤニヤしながら詰め寄ってくる。
もう逃げ場はなかった。
カイは観念したみたいにベッドの上へ正座し、横のワードローブの奥底から、大事に隠していた紙袋を取り出した。
「……あ、開けるよ?」
震える手で取り出したのは、
柔らかな肌触りの黒いオフショルタイプのニットワンピースだった。
袖口には繊細なレースがあしらわれ、ミニ丈の裾がカイの指先で揺れる。
「……かわいい!」
MIUの瞳が、ぱっと輝いた。
それは彼女が普段着ている「戦闘服」みたいな鋭いドレスとは違い、どこか柔らかくて、守りたくなるような温もりのある黒だった。
「MIUちゃん、秋冬物……あんまり持ってなさそうだったから。
俺の好みだけど、これなら絶対似合うと思って。……えっと、ごめん、勝手に買って」
「ううん、うれしい! ……ねえ、着てみてもいい?」
「ぜ、ぜひお願いします!」
突如として始まった、病院帰りの衣装合わせ。
カイとレンが見守る中、MIUはスウェットを脱ぎ捨て、新しいワンピースへ袖を通した。
オフショルから覗く白い肩。
ニットの柔らかな曲線。
「……どうかな?」
少し照れくさそうに首を傾げるMIUを見て、カイは言葉を失った。
レンは舌打ちをして、視線を逸らしながらも、満足そうに口元を緩めている。
病院の白い壁の記憶は、このワンピースによって、四人の家の色へ塗り替えられていく。
回らないミラーボールの下。
新しい服を纏ったMIUは、まるで暗闇に咲く一輪の毒花みたいに。
けれど、これまでで一番幸せそうに笑っていた。
第23話 歌舞伎町の挨拶
ある日のシェアハウス。
レンがなにやらユウキへ、こそこそとスマホの画面を見せてニヤニヤしているのを、MIUは見つけた。
なんだか自分だけ仲間外れにされているみたいで、MIUはすぐ二人の元へ近づく。
「なに見てるの、ふたりで」
「おう、なんでもねぇよ」
レンにはぐらかされる。
けれど、そのスマホはユウキの手元にあった。
「えいっ」
MIUは勢いよくスマホを奪い、そのまま画面を覗き込む。
そして、みるみるうちに顔を赤くした。
「な、なにこれ……」
画面に映っていたのは、畳の部屋で真っ赤な麻縄に縛られた女性たちの写真だった。
あられもない姿。
けれど、不思議と下品というより、どこか作品みたいな空気がある。
「あーあ、見ちゃったな、MIU」
レンが軽やかにスマホを取り返す。
「二人でエッチなお店行こうとしてたの?」
MIUは頬を膨らませ、信じられないという顔でレンとユウキを睨んだ。
「違う違う。この店は風俗店じゃねぇよ」
「ここは、サブカルチャーを純粋に楽しむ体験スペースなんだ」
ユウキは声色一つ変えずに言う。
レンはMIUの隣へ回り込み、改めてスマホを見せた。
「ほら、写真は女の人ばっかだろ? 俺らが行ってどうすんだ」
確かに、レンの言う通りだった。
「MIUは緊縛、知らないのか?」
「え……MIUわかんないよ」
どぎまぎした様子のまま、それでも視線は画面へ釘付けだった。
レンが意味ありげに笑う。
「そうか。もったいないな」
「え?」
「せっかく歌舞伎町に住んでるのに、緊縛の体験もしたことないなんて」
「か、歌舞伎町と……関係ないじゃん」
「いや、それは違うぞ、MIU」
ユウキが静かに言葉を遮る。
「歌舞伎町は、そういう人たちを受け入れてきた場所なんだ」
「そういう人?」
「……そういうひとだ」
レンも続ける。
「要はサブカルだろ。エロだけじゃねぇってこと」
「そ、そんなこと言われても、MIU知らないもん」
ユウキは優しい声で言い、目線を合わせた。
「MIUだって、悪くないと思ったから、今も歌舞伎町にいるんだろ?」
「それは……ユウキくんのお店のお客さんも、みんな優しかったし……」
「そういうことだ」
MIUはまだ少し困った顔をしていた。
レンはわざと声を落として続ける。
「ああいうのもOKだから、俺たちもここに住めてるってこと」
「え?」
「女一人、男三人。……他でバレたらボコられるぜ」
「え、やだ。怖い」
「歌舞伎町だから、安心してドンキにも行けるんだ」
レンの演技っぽい口調に、ユウキが横で少し肩を震わせている。
MIUは、地元で道端に集まって延々と噂話をしていたおばさんたちを思い出していた。
『あの子、やぁね、恥ずかしい』
『あそこの家の子よ、あのいっつも怒鳴ってる……』
『やっぱり荒んじゃうのねぇ』
何も聞こえないふりをして、足早に通り過ぎた帰り道。
確かに歌舞伎町では、ナンパはあっても、知らない誰かに噂されたことはなかった。
MIUは勝手に話を脳内補完する。
「そうだったんだ……私ほんとに知らなかった」
「知らなくて普通、普通」
「レンは、MIUを連れていきたいみたいだぞ」
「おい、ユウキ」
レンが舌打ちする。
ユウキは、ふっと口元を緩めた。
「MIUも、そろそろ歌舞伎町に慣れてきただろ」
「う、うん」
「じゃあ、そろそろ挨拶に行かないとな」
「挨拶?」
「ああ。様々なカルチャーを受け入れてきた、先輩方にな」
レンは固まった。
(……最初から連れてく気だったのか、こいつ)
MIUはユウキのブレないプレゼンに、「そういうものなんだ」と普通に緊張していた。
レンはもう笑いを堪えきれず、トイレへ逃げ込んだ。
◇
四人の休みが合った日。
勝手に「歌舞伎町」という概念を背負わされた緊縛師へ、“挨拶”に行くことになった。
もちろん、本人たちはそんなつもりは毛頭ない。
けれどMIUだけは、まだ少し信じているみたいだった。
カイが「何で緊縛?」と聞いてきたが、
レンもユウキも「さぁ」と、意味深な顔をしておいた。
店の中は驚くほど清潔感があり、中央の畳が静かな存在感を放っている。
ユウキが受付を済ませた。
「本日はよろしくお願いします」
その横で、MIUも緊張した面持ちのまま頭を下げる。
「よろしくお願いします……」
ユウキのはそういう挨拶じゃねぇだろ、とレンは思ったが、面白かったので言わなかった。
◇
やがてショーの時間が始まる。
最初は、ベテランらしい女性が畳の中央へ座り、静かに縄を掛けられていった。
両手の自由が奪われ、赤い麻縄が体の曲線を強調していく。
やがて彼女の身体は、ゆっくりと宙へ浮かび上がった。
MIUは息を呑む。
もっと暴力的で、恐ろしいものだと思っていた。
けれど実際は、とても静かだった。
空気が止まったみたいに、誰も息をしていないみたいな時間。
「……綺麗」
思わず、小さく呟いていた。
◇
ショーが終わり、今度は体験の時間がやってくる。
「怖かったら無理しなくて大丈夫ですからね」
緊縛師の声は驚くほど穏やかだった。
四人の中から一人だけ体験できるらしく、皆に背中を押され、MIUが前へ出る。
縄が身体へ這う。
カイが興味津々で尋ねた。
「どんな気分?」
「えっと……まだ、わかんない」
MIUの目は少し伏せ目がちだった。
「これで完成です」
「お連れ様も前へどうぞ」
そう促され、レンとユウキとカイが畳の前へ並ぶ。
「ど、どうかな」
MIUは恐る恐る顔を上げ、三人を見た。
その瞬間、一気に身体が熱くなる。
あ、今、私。
三人がこんな顔をするくらい、恥ずかしい格好なんだ。
MIUは視線を泳がせた。
レンもカイも、畳の前で動けない。
すると、ユウキが一歩前へ出た。
その手が、MIUの太ももへ触れる。
MIUは反射的に身体へ力を入れた。
また、あの淫らな空気が始まってしまうのだと思った。
だが次の瞬間。
ユウキはMIUの脚を高く持ち上げ、そのまま空中へ腰を振り始めた。
MIUは目を丸くしたまま、揺らされるがままユウキを見る。
レンとカイも、一瞬何が起きたかわからなかった。
そして次の瞬間。
「っ、はははははっ!!」
レンとカイは店内へ響き渡るほど大笑いした。
レンは何かがツボに入りすぎたのか、その場へ膝から崩れ落ちる。
ユウキだけは相変わらず真顔だった。
「これが正式な男側の緊縛体験だろう」
その瞳には、一切の迷いがなかった。
MIUの人生初の緊縛体験には、真顔のユウキの奇行と、レンとカイの笑い声だけが残った。
◇
帰り道。
カイが突然「あっ!」と声を上げた。
「写真、一枚も撮ってない!」
本気で悔しがるカイの横で、レンはまだ思い出し笑いをしている。
MIUは縄の跡が残った手首を見つめ、少しだけ笑った。
帰り道にいたのは、いつもの「一人の女の子と、三人の男の子」じゃなかった。
思い切り変な体験をして、腹を抱えて笑い合った、四人のグループだった。
第24話 土足の正論
歌舞伎町の入り口。
靖国通り沿いのビル脇。室外機の熱風が、狭い通路にこもっていた。
美容サロンの従業員口から少し離れた場所で、カイは絶望に近い溜息を噛み殺していた。
「だから、母さん。連絡もしないで急に来ないでって言ったじゃん。
仕事中だし。もう二十歳過ぎた大人なんだよ、俺は」
「何言ってるの。新しい職場のお祝いも言えないなんて、お母さん寂しいわよ。ほら、これ。
地元のリンゴジュースと、お米もちゃんと一合ずつ分けてあるから。重かったんだから~」
母・恵子は、タイヤ付きのキャリーの上に大きな紙袋を乗せた。
地方特有の、人懐っこくて、悪気のない空気。
けれど今のカイには、それが何より重苦しい。
靖国通りの車の音が、通路の奥まで反響していた。
彼女にとってこの街は単なる「都会」でしかない。
ここがどれだけ欲望と欠落の吹き溜まりなのかなど、想像もしていなかった。
「いいから今日はもう帰って。これから友達と約束あるんだって」
「あら、いいじゃない。お母さんも挨拶させて。
カイがお世話になってるお友達なら、ちゃんとお礼言わないと」
「いいって! そういうんじゃないから……!」
押し問答をしていた、その時だった。
「……カイ、遅いぞ。何やってんだ」
背後から、レンの声。
振り返ると、そこにはレンとユウキ、そして不安そうにレンの袖を掴むMIUがいた。
「あ……みんな」
カイの顔が引き攣る。
恵子は目を丸くし、三人を順番に見た。
好奇心と、隠しきれない戸惑い。
「こんにちは。カイの同居人のユウキです。いつもお世話になってます」
ユウキが営業用の完璧な笑みを浮かべ、一歩前へ出る。
その洗練された立ち振る舞いに、恵子は少し安心したようだった。
「あら、ご丁寧に。カイの母です。仲良くしてくれてありがとうね。同居人?
カイ、誰かと住んでるなんて聞いてないわよ」
だが、その視線がレンへ移った瞬間、表情がわずかに強張る。
金髪。伸びかけた黒い根元。ジャージ姿。
レンもまた、この女から漂う“まともな家庭”の匂いに、本能的な拒絶感を抱いていた。
そして最後に、恵子の視線はMIUで止まる。
「……あら」
思わず、という声だった。
MIUはこの日のために、先日カイが選んでくれた黒いワンピースを着ていた。
けれど恵子の目には、それが「可愛いお洒落」ではなく、どこか“不健全なもの”として映ったらしい。
「あら~、随分と……スカート短いのねぇ。誰の彼女さんなの?」
悪意はない。
ただの親らしい感覚。
それでも、その言葉はMIUの心へ鋭く刺さった。
答えのない問いに、MIUは反射的にワンピースの裾を握りしめる。
「カイ。お友達って、美容師学校の子たちじゃないの……?」
恵子の声に、わずかな怯えが混ざる。
彼らの纏う“欠けた空気”に、彼女はようやく気づき始めていた。
「……違うよ。でももういいでしょ」
カイが庇うように前へ出る。
だが恵子は、その手を掴んだ。
「ねえカイ。本当にもう無理しなくていいのよ?
こんな……よくわからない場所にいなくても。地元に帰ってきたっていいんだから」
その言葉が、夕暮れの歌舞伎町に場違いなくらい真っ直ぐ響いた。
「お父さんも、あなたが帰ってくれば安心するんだから」
“地元”。
それは、ここではない場所に存在する、“正しい居場所”の象徴だった。
レンが舌打ちする。
ユウキの瞳が、静かに冷たく細まった。
そしてMIUは。
(帰るところが、あるんだ……)
脳裏に、自分を“汚物”みたいに扱った母親の顔が浮かぶ。
カイの母親が向ける、過剰なくらいの愛情と心配。
それは、自分には一生与えられないものだった。
同時に、自分みたいな存在がカイを“まともな世界”から引き離しているのだという、
黒い罪悪感が足元から這い上がってくる。
「……帰ってよ、母さん」
カイの声は、少し震えていた。
◇
改札へ向かう前、恵子は一度だけ振り返る。
「困ったことがあったら、ちゃんと連絡するのよ」
「だから大丈夫だって」
「あなたは昔から、“大丈夫”って言う時ほど無理するんだから」
カイが困ったように笑う。
少し離れた場所で待っていたレンは、露骨に視線を逸らしていた。
その隣で、MIUは俯いたまま何も言えない。
ユウキだけが静かに会釈をした。
恵子は三人を見て、何か言いかけて、結局飲み込む。
「……じゃあね」
小さく手を振り、改札へ向かおうとした時だった。
「……また来てやってください」
低い声。
振り返ると、レンが気まずそうに煙草を弄っていた。
「……こいつ、あまちゃんなんで」
ぶっきらぼうな言い方。
なのに恵子は、なぜか少しだけ胸が詰まった。
恵子が去った後に残ったのは、気まずい沈黙だった。
そして、自分たちが“外の世界”から見れば異物なのだという、冷たい現実。
MIUは、自分の細い指を見つめたまま小さく震えていた。
予定していた外飲みは、そのまま立ち消えになった。
カイが押し付けられたリンゴジュース、土付きの大根、そして五キロの米袋。
それらを抱えて夜の街を歩くのは、あまりにも場違いで、滑稽だった。
結局、コンビニで酒と弁当を買い込み、四人は逃げるようにシェアハウスへ戻る。
「よいしょ……っと。これ、みんなも好きに食べてね」
カイが努めて明るく振る舞いながら、野菜を冷蔵庫へ押し込む。
だが、誰も続かなかった。
「……カイ」
レンがコンビニ袋を丸テーブルへ置きながら呟く。
「この部屋、炊飯器ねえよ」
静寂が落ちた。
四人の生活は、コンビニ飯と酒、その場しのぎの快楽で回っていた。
“米を炊く”。
そんな慎ましく真っ当な生活の音は、この部屋のどこにも存在していなかった。
「あ……そっか。鍋とかで炊けるかな」
カイの笑顔が、かえって痛々しい。
その背後にある“普通の親心”が、この部屋の異常さを照らしていた。
「……カイくんのお母さん、帰ってきなさいって言ってたけど、大丈夫なの?」
MIUの声は震えていた。
“地元に帰ってきたっていいのよ”。
その言葉が、まだ頭から離れない。
「いつものことだから大丈夫!
俺、どこにもいなくならないから。MIUちゃん、そんな顔しないでよ」
カイが慌てて肩へ触れる。
けれど今のMIUには、その優しさが、自分をここへ縛り付ける鎖みたいにも感じられた。
「……なんか嫌なババアだな、お前の母親」
ソファへ沈み込んだレンが、天井を見たまま吐き捨てる。
「あんな“私はいい母親です”みたいな顔して、言いたい放題かよ。反吐が出る」
「レンくん、言い過ぎだよ……」
「言い過ぎじゃねぇよ。俺、最後、挨拶ちゃんとしたし」
レンの敵意は、自分たちの居場所を守るための防衛本能だった。
カイは苦笑いしながら、オレンジのビーズクッションへ沈み込む。
「ごめんって。俺もビックリしたんだよ。連絡なしで急に来てさ。
……あるじゃん、そういうの」
「ねぇよ。親いねぇし」
「え、あ、ごめん……」
空気が止まる。
ユウキは、その輪から少し離れた場所で静かにグラスを磨いていた。
彼は見ていた。
MIUがワンピースの裾を、関節が白くなるほど強く握りしめていることを。
カイの“いなくならない”という言葉が、今のMIUには重すぎることを。
そして、“愛”という善意が、この共同体を少しずつ壊し始めていることを。
ユウキは何も言わない。
ただ、自分のグラスへ強い酒を注いだ。
「……とりあえず今日は飲もう。カイ、そのジュース貸せ。酒で割れば、うまいだろ」
その言葉で、無理やり宴が始まる。
けれど床へ置かれたままの米袋だけは、ずっと部屋の中心に居座り続けていた。
まるで彼らへ突きつけられた、“普通の幸せ”からの最後通牒みたいに。
第25話 疑心の種
歌舞伎町の喧騒から少し外れた、湿った空気の漂う裏路地。
MIUはユウキの少し後ろを歩きながら、ふと足を止めた。
目の前には、見覚えのある無機質な外壁のマンションがそびえている。
「……あ、ここ。前、レンくんが住んでたマンションだよ」
MIUの声には、かすかな懐かしさが混じっていた。
道端でボロボロになっていた自分を、レンが半ば強引に連れ帰った場所。
何もないワンルームのベッドで、震える自分を抱きしめながら、
『全部、溶かしてやる』
そう言ってくれた、二人の始まりの場所だった。
今はもう、誰も住んでいないはずだった。
けれどその時、重たいエントランスの扉がゆっくりと開く。
「……っ」
現れたのは、見間違えるはずもない金髪だった。
黒いベロアのジャージを揺らしながら、レンがマンションの中へ吸い込まれていく。
MIUは息を呑んだ。
心臓が、不自然なくらい速く脈打つ。
四人での生活は、夢みたいだった。
カイが髪を整えてくれて、ユウキが甘いラテを淹れてくれる。
あたたかくて、優しくて、穏やかで。
だからこそ、その“完璧さ”が、胸の奥の澱を静かに掻き回す。
シェアハウスにしたのは、自分がレンの邪魔だったからじゃないか。
自分がいることで、彼の生活を歪めてしまっていたんじゃないか。
ネイルの欠けた指先が、ユウキの袖口を掴みそこねた。
「……MIU」
隣で、ユウキが静かに彼女を呼ぶ。
メガネの奥の瞳が、MIUの視線の先と、その震える手を見つめていた。
ユウキは、そっとMIUの拳を包み込む。
「……何か用事があるんだろう。まだ荷物が残っているのかもしれない」
低く落ち着いた声が、暴走しかけた思考をゆっくり現実へ戻していく。
「帰ってきたら聞けばいい。レンは、お前に嘘をつく男じゃないだろ」
「……うん……」
MIUは小さく頷いた。
ユウキの手の温度を確かめるように、指先へ少しだけ力を込める。
「帰ろう。カイも、そろそろ仕事から戻ってる頃だ」
ユウキに肩を抱かれながら歩き出しても、背後に残されたマンションの影は、ずっと視界の端にこびりついていた。
切り離したはずの過去みたいに。
◇
シェアハウスのリビングには、コンビニ弁当の空き容器と、カイが淹れた紅茶の甘い香りが残っていた。
ユウキはそのままBARの夜勤へ向かい、今はカイが鼻歌混じりに洗い物をしている。
「あー、今日のアイスも美味かったね、MIUちゃん」
「……うん、そうだね」
ソファに座るMIUは、膝の上で自分の指をいじりながら、上の空で返事をした。
脳裏に焼き付いて離れないのは、昼間見たレンの背中。
聞けばいい。
『前のマンションにいたの見たよ』
たったそれだけ。
なのに、言葉が喉の奥で固まる。
もし、自分が重荷だから部屋を残しているのだとしたら。
もし、四人の生活が“仮”だったとしたら。
考えるほど、胸の奥が冷えていく。
そこへ、玄関の鍵が開く音が響いた。
「ただいま」
レンだった。
少し疲れた様子でリビングへ入ってきたレンは、MIUを見つけた瞬間だけ、表情をふっと和らげる。
「おい、MIU。飯ちゃんと食ったか?」
どさりと隣へ腰を下ろし、自然な動作で頭に手を置く。
その大きな掌の熱が、今のMIUにはやけに切なかった。
「……レンくん、おかえり」
「なんだよ、声ちっせぇな。カイに苛められたか?」
「そんなわけないじゃん! 俺、MIUちゃんには世界一優しいもん!」
キッチンからカイが声を飛ばす。
レンはそれを聞き流し、じっとMIUの顔を覗き込んだ。
何も言わず、前髪を親指で払う。
「……MIU。お前なんか変だぞ。どうした?」
声色が、一段柔らかくなる。
MIUの胸がぎゅっと締め付けられた。
今なら聞ける。
けれど、もし壊れる答えが返ってきたら。
そう思った瞬間、怖くなった。
「……なんでもない。ちょっと眠いだけ」
無理やり口角を上げる。
紅茶へ手を伸ばしかけ、震える指に気づいてそっと引っ込めた。
レンは怪訝そうに眉を寄せたまま、しばらく黙ってMIUを見つめていた。
やがて小さくため息をつき、彼女の肩を引き寄せる。
「……そうかよ。なら今日は早く寝ろ。俺も風呂入ったら行くから」
その温もりを拒めず、MIUは静かに目を閉じた。
聞けなかった問いは、解消されないまま胸の底へ沈殿していく。
レンの腕の中にいるのに。
MIUは今までで一番、彼との距離を遠く感じていた。
第26話 溶けていく夜に
その夜の食卓は、騒がしかった。
カイがコンビニで「絶対うまい」と言い張って買ってきたチーズフォンデュが、加熱しすぎて黒焦げになっていたのだ。
「だから言ったじゃん、火が強すぎるって」
「違う違う! チーズってこういうもんなんだよ。ちょっと焦げたくらいが香ばしくて……」
「食えるか、これ」
レンが焦げた塊をフォークで突きながら眉を寄せる。
隣でユウキも静かに結論を出した。
「……俺も無理だな」
「えぇ!? MIUちゃんはいけるよね!?」
カイが縋るような目を向ける。
MIUは恐る恐る口へ運び、二秒後に顔をしかめた。
「……にが、い……」
「全員じゃん!!」
カイの悲鳴が響き、レンが腹を抱えて笑い出す。
ユウキまで珍しく声を立てていて、MIUはテーブルへ突っ伏しながら肩を震わせた。
こんなに笑ったのは、いつぶりだろう。
もしかしたら、人生で一番かもしれない。
――こんなに笑ってていいのかな。
浮かんだ考えは、また笑い声の波に呑まれて消えていった。
結局その夜は、カイが懲りずに「じゃあ俺、唐揚げ揚げる」と言い出し、跳ねた油がレンのジャージへ飛んで、またひと騒動起きた。
ユウキが無言でキッチンペーパーを押し当てる横で、カイとレンが言い合いを始める。
「レンくん、怒らないで」
MIUが間へ割って入ると、レンは即座に矛を収めた。
「……お前が言うなら仕方ねぇ。カイ、命拾いしたな」
その様子を見ていたユウキが、MIUにだけ聞こえる声で囁く。
「レン、MIUには甘いな」
耳元へ落ちた低い声に、MIUの耳がじわりと熱くなる。
食事を終え、四人でキングサイズのベッドへ転がった。
ネオンの光がレースカーテンを透かし、止まったままのミラーボールがぼんやり光を返している。
レンの腕が腰へ回る。
反対側では、カイが「MIUちゃんあったかい」と身体を寄せてくる。
ユウキは少し離れていた。
けれど気づけば、MIUの指先が彼のシャツの裾を握っていた。
四つの体温が、ゆっくり混ざっていく。
息を吸う。
レンの煙草と汗の匂い。
カイの甘い香水。
ユウキの静かなコロン。
全部が混ざり合って、鼻の奥へ染み込んでくる。
これが“家の匂い”なのかもしれないと、MIUは思った。
なのに、頭の奥では別の声が止まらない。
良いことが続く時ほど、怖かった。
幸せはいつも、壊れる前触れみたいに思えた。
カイの母親の視線が、暗い水底みたいに脳裏へ浮かぶ。
“帰れる場所”を持つカイ。
自分が奪っているかもしれない未来。
MIUはぎゅっと目を閉じ、レンの腕の熱へ意識を押しつけた。
今だけは考えたくなかった。
今夜だけは。
◇
翌朝。
「……おはよう」
ユウキの低い声で目が覚めた。
レンは金髪を枕へ押しつけたまま眠っていて、カイは「あと五分」と呟きながら毛布へ潜り込んでいる。
ユウキだけが先にシャワーを済ませ、静かに支度を整えていた。
「MIU。髪、梳かそうか」
押しつけがましくない、自然な声。
MIUは小さく頷き、ユウキの前へ座った。
ブラシが髪をゆっくり滑っていく。
大きく静かな手。
その感触が、驚くほど心地いい。
――こういう時間が、一番怖い。
怒鳴り声より。
暴力の気配より。
こんな穏やかな時間の方が、ずっと。
失う未来だけが、鮮明になる。
MIUは欠けたネイルをカリカリと掻いた。
先端が小さく剥がれ落ちる。
「MIU、ちゃんと食ってるか? 昨夜のアレは食事に入らないぞ」
「……入るよ。唐揚げおいしかったし」
「チーズが不合格だっただけで、唐揚げは普通だったな」
「ユウキくんって、ちゃんと褒めるよね。カイくんのこと」
「褒めてない。評価してるだけだ」
その言い方がおかしくて、MIUは吹き出した。
笑った瞬間でさえ、不安になる。
それでも、笑ってしまう。
レンが「うるせぇ」と寝ぼけ声を出し、カイが「おはよ〜」と這い出してくる。
ユウキは四人分のコーヒーを淹れ始めた。
カウンターへ並ぶ四つのマグカップ。
MIUはソファから、その光景をぼんやり見つめる。
もうすぐ、みんな自分を嫌いになる。
なぜか、そんな確信だけが消えなかった。
カイの母親みたいに。
『あなたは違う世界の人』
そういう目をして、離れていく。
だから今だけ優しいのかもしれない。
終わる前だから、こんなにも幸福なのかもしれない。
MIUは胸の奥を締め付けられながら、レンを見つめた。
レンが振り返り、目が合う。
「なんだよ、そんな顔して」
「……なんでもない」
「嘘くせぇけど、まあいい。コーヒー飲むか」
「……うん」
差し出されたマグカップを、両手で包み込む。
熱かった。
レンの体温みたいに。
胸の奥へ溢れてくる不安を、MIUはコーヒーと一緒に飲み込んだ。
窓の外では歌舞伎町が動き始めている。
止まったミラーボールが、朝の光をばらばらに砕いていた。
四人の影が、一つに重なって。
また、静かに離れていく。
第27話 いなくなる
シェアハウスの空気は、かつてないほど穏やかだった。
ベッドではカイが新しいヘアアイロンを試し、
ユウキはキッチンで新調したカクテルグラスを磨いている。
レンはソファに横になったまま、ウォールシェルフに飾られた景品たちを不機嫌そうに、けれどどこか満足げに眺めていた。
「MIUちゃん、最近よく笑うようになったよね」
カイが鏡越しにそう言い、ユウキも「少しは安心できてるのかもな」と微かに目を細める。
彼らにとって、この部屋は四人の幸福を閉じ込めた聖域だった。
けれど、その中心にいるはずのMIUだけが、色のない世界にいた。
MIUは、ピンクのビーズクッションに沈んだまま、ぼんやりと天井を見上げていた。
止まったミラーボール。
レースカーテン越しのネオン。
重なり合う笑い声。
全部が、遠い。
カイも、自分の本当の居場所を捨ててここにいる。
ユウキの優しさも、レンの執着も、自分には重すぎる。
そして、レンのあのマンション。
あそこがレンの本当の居場所で、
この部屋は、壊れかけた自分を閉じ込めるための仮初めの檻なのではないか。
MIUはゆっくり立ち上がった。
ワードローブの下段。
そこに隠していた、以前処方された強い睡眠薬と、市販薬の箱を取り出す。
いなくなれば、みんな自由になれる。
MIUは静かに風呂場へ向かった。
皆が生活する隙間を抜けて、いつも通りの顔で。
誰も止めない。
誰も気づかない。
お風呂場の扉を閉める。
曇りガラスの扉は、ほんのりとピンクのネオンを透かしている。
うがい用のコップに薬を溢れるほど出し、水を注ぐ。
白い錠剤が、ゆっくり濁って沈んでいく。
MIUは震える手で、それを飲み込んだ。
一度。
また一度。
喉が焼ける。
胃の奥が熱い。
視界が揺れ、膝から崩れ落ちた。
けれど、数分もしないうちに声が響いた。
「おい、MIU?」
風呂場の扉が開く。
レンだった。
床に散らばる薬のシート。
倒れ込むMIU。
一瞬で、レンの顔から血の気が引いた。
「MIU!? おい、しっかりしろ!」
レンの怒鳴り声で、部屋の空気が凍りつく。
ユウキが駆け込み、無理やり吐かせようとする。
カイは震える手でスマホを握りしめた。
「……やだ……放して……っ」
混濁する意識の中で、MIUは必死に抵抗した。
愛されている。
その事実が、今は何より怖かった。
死ねなくなる前に、逃げなきゃいけない。
ユウキが一瞬目を離した隙に、MIUは玄関を飛び出した。
「MIU!!」
レンの叫びを背に、彼女は夜の歌舞伎町へと転がり込む。
視界は歪み、足元は何度ももつれた。
それでも身体は、知っている場所を辿ってしまう。
ゲームセンター。
ホテル。
クラブ。
カラオケ。
四人で笑った場所ばかりだった。
涙が止まらない。
どこへ行っても、レンの煙草の匂いがする気がした。
やがて限界を迎え、MIUは冷たいコンクリートへ倒れ込む。
視界の端に、革靴が止まった。
「……大丈夫?」
知らない男だった。
霞む視界の中、男の手が差し出される。
「助けてあげようか」
MIUは、その手を取った。
今は、三人の愛よりも、何も知らない他人の方が楽だった。
──どれくらい時間が経ったのか、わからない。
鼻を刺す薬品臭で、MIUは目を覚ました。
薄暗い部屋。
積み上げられた段ボール。
白い粉と、錠剤。
そして、見覚えのある部屋。
「……ここ……」
レンが昔住んでいたマンションだった。
かつて、自分を救ってくれた場所。
けれど今は、生活の匂いなんて何一つ残っていない。
そこは、レンの“仕事場”だった。
「あー、起きた」
知らない男たちが笑う。
「カズさんの女だろ?」
知らない名前。
下卑た視線。
乱暴な手。
MIUの身体が恐怖で強張る。
「やめて……っ」
抵抗は、簡単に押さえ込まれた。
逃げ場のない場所へ押し込まれる冷たい刺激。
暴力的な異物感が、身体の奥を焼いていく。
「あ……っ、やだ……!」
恐怖と薬で、視界が白く弾ける。
その時だった。
──ガァン!!
扉が、爆音と共に蹴り飛ばされた。
「……てめぇら」
レンだった。
手にはスマホ。
画面には、写真が貼られたチャットのやりとり。
そこに写っていたのは、倒れたMIUだった。
「やりとり全部見えてんだよ。わかってやってんだろ」
レンの目から、完全に光が消えていた。
「死にたいんだな」
次の瞬間には、男が床へ叩きつけられていた。
鈍い音。
悲鳴。
崩れる身体。
レンは迷わなかった。
「俺の仕事場で……俺の大事なもんに触ってんじゃねぇよ……!!」
怒号が狭い部屋に響く。
男たちは逃げることもできず、その場に崩れていく。
やがてレンは、床に蹲るMIUの前へ膝をついた。
「MIU……!」
レンは震える手で、自分の上着を彼女へかける。
MIUの身体は異常な熱を帯び、壊れたように震えていた。
「ごめん……ごめんな……」
レンの声が掠れる。
「俺のせいだ……全部……」
サイレンの音が近づいてくる。
レンは若手の襟首を掴み上げた。
「今すぐブツ全部、他の部屋に移せ。一欠片も残すな」
氷みたいな声だった。
「警察来たら、お前ら終わりだからな」
若手たちは青ざめながら、部屋を飛び出していく。
救急隊が駆け込み、MIUはストレッチャーへ乗せられた。
レンも、そのまま救急車へ飛び込む。
赤色灯が、MIUの青白い顔を照らしていた。
レンは彼女の手を握り続ける。
「死ぬな……」
震える声。
「頼むから、俺を一人にしないでくれ……」
処置室の扉が閉まる直前。
MIUの視界に映った最後の光景は、絶望に顔を歪めたレンだった。
◇
──三日後。
MIUが目を覚ました時、病室には刑事たちが立っていた。
「少し、話を聞かせてもらえるかな」
鋭い視線。
枕元には、泣きそうな顔のカイと、静かに立つユウキ。
刑事たちは問いを重ねる。
犯人は。
場所は。
通報者は。
MIUはゆっくり唇を開いた。
「……知らない人でした」
レンの名前は出さない。
あの部屋のことも。
あの日、自分を救ったのがレンだったことも。
全部、飲み込む。
「通報してくれた人も……わかりません」
刑事たちは納得しきれない顔をしていたが、やがて病室を後にした。
静寂が落ちる。
MIUは枯れた声で絞り出した。
「……レンくんは?」
ユウキが目を伏せた。
「家で待ってる。ここには来れないって……」
その言葉だけで十分だった。
レンは、警察の目を避けている。
ここへ来ることすらできない。
その距離が、MIUの胸を締め付けた。
「MIUちゃん……っ」
カイが堪えきれず泣き出す。
「よかった……ほんとによかった……!」
ユウキの手が、そっとMIUの頭を撫でる。
「帰ったら、四人でちゃんと話そう」
穏やかな声だった。
「大丈夫だから」
レンのいない病室で。
MIUは二人の温もりに包まれながら、
歌舞伎町の片隅にある、あの歪で愛おしい部屋を思い浮かべていた。
第28話 どこにも行けない
レンが病院から戻った頃には、もう朝方に近かった。
歌舞伎町のネオンは消えかけ、レースカーテン越しの部屋は、
青白く死んだみたいに静まり返っている。
レンはソファに座ったまま、一度も煙草に火をつけなかった。
カイもユウキも、何を聞けばいいのかわからなかった。
三日前。
レンから「MIUが見つかった」とだけ連絡が来た。
二人が病院へ駆けつけた時には、レンはもういなかった。
入院になること。
状態が悪いこと。
しばらく会えないこと。
聞けたのは、それだけだった。
それから三日。
レンは何も話さなかった。
今日、病院で刑事と医師から聞かされた内容は、あまりにも酷かった。
二人組による監禁。
薬物。
暴行。
カイは、冷えた指先を強く握り込んだ。
「……警察、来てたぞ」
重たい沈黙のあと、ユウキが低く言った。
「病院で聞いた。なにがあったか」
レンは俯いたまま答えなかった。
その代わり、掠れた声で呟く。
「……MIU、どうだった」
「……ちゃんと受け答えはしてた」
ユウキの返答に、レンは目を閉じた。
「そうか……」
安堵なのか、絶望なのか分からない息が漏れる。
それからレンは、灰皿の縁を指でなぞりながら、ぽつりと言った。
「……俺、もうここ出るわ」
カイが顔を上げる。
「……は?」
「警察来たんだろ。もう無理だ」
レンは笑わなかった。いつもの軽薄さも、威圧感もなかった。
「……俺がダメになっても、MIUを一人にしねぇ形にしたかった」
静かな声だった。
けれどその言葉だけで、カイの喉が詰まった。
「……俺、いなくなるわ」
レンの声には、もう、いつもの決定的な響きがなかった。
「三日あった」
煙草を持つ手が震えている。
レンは、ふらふらと立ち上がった。
「逃げる時間も、
お前らに話す時間も」
沈黙。
「……でも、どっちもできなかった」
レンの肩が、小さく震えた。
「……あいつ、絶対そう思ってる」
レンは掠れた声で言って、数歩前に出る。
「『私のせいだったんでしょ』って」
ガァン!!!!
突然、壁が揺れた。
「レンくん!?」
ベッド脇の壁に、レンの拳が深くめり込んでいる。
白いクロスが裂け、粉が床へぱらぱら落ちた。
誰も、レンに触れられなかった。
レンの拳から、ぽたぽたと血が落ちている。
カイが何か言いかけて、結局、唇を閉じた。
ユウキも、救急箱を出したが、持ったまま動けなかった。
部屋には、換気扇の音だけが響いていた。
「……レンくん」
カイの声にも振り返らず、レンはワードローブをじっと見つめる。
乱暴に引き出しを開け、中から黒いジャージ、数枚のTシャツ、寝間着代わりのスウェットを引っ張り出した。
それから煙草とライター。
床に転がっていたスポーツバッグへ、それらを無造作に突っ込んでいく。
──それだけだった。
レンは、一瞬だけ動きを止めた。
視界の端では、ピンクのビーズクッションが潰れたまま転がっている。
棚には、MIUがゲームセンターで取った安っぽいぬいぐるみ。
カイが選んだワンピース。
ユウキが買ったグラス。
ごちゃついて見えていたこの部屋は、全部、MIUが笑うためのものだった。
自分の物なんて、驚くほど少ない。
「……は」
乾いた笑いが漏れる。
レンはバッグを握ったまま、ゆっくりとうつむいた。
「なんも、ねぇな……俺」
その声は、怒鳴り声よりずっと壊れていた。
救急箱を持ったまま、ユウキが低く言った。
「……お前がいなくなったら」
レンの背中が止まる。
「それこそ、MIUは死ぬしかなくなるだろ」
静かな声だった。
責めるでもなく、
引き留めるでもなく。
ただ、事実を確認するみたいに。
「お、俺……」
カイの声が震える。
「レンくん失ったMIUちゃん、止められる自信ないよ……」
ぽろ、と涙が落ちた。
「だって、MIUちゃん……レンくんいないと、ほんとに死にそうじゃん……」
レンは何も言わなかった。
血のついた拳で、スポーツバッグを雑に握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。
換気扇の音だけが、やけに大きく響いている。
結局、レンはその日、部屋を出ていけなかった。
レンの灰皿は、いつにも増して山盛りだった。
吸い殻が崩れ、灰がテーブルへ散っている。
ユウキが丸テーブルに救急箱を置く。
けれどレンは、一度もそちらを見なかった。
拳から滲んだ血だけが、乾いて黒くこびりついている。
カイはキッチンに背を預け、体育座りをしていた。
いつもなら絶対に居座らない場所。
──この部屋で、ベッドから一番遠い場所だった。
ユウキがバルコニーに出る。
別に、何をしようでもなかった。
遠くから救急車の音がする。
誰も、それを聞かなかったことにした。
第29話 いない七日間
真っ白な天井と、消毒液の匂い。
規則的に刻まれるバイタルモニターの電子音。
その清潔で安全なはずの檻の中で、MIUの時間は死んだように止まっていた。
入院から七日が経とうとしていた。
薬の毒性は点滴によって洗い流され、体温も血圧も正常値に戻ったはずだった。
けれど、肉体の回復と反比例するように、
MIUの精神は泥のようなクラッシュの底へと沈み込んでいく。
一番会いたい男だけが、ここには来ない。
警察の影がちらつくこの場所に、レンは、一歩も近づくことができなかった。
その「大人の事情」を、今のMIUの脳は理解することを拒んでいた。
代わりに、頭の中の声が囁く。
レンは、汚くなった自分を見たくないんだ、と。
あの日、助けてくれた時に、
自分の身体を目の当たりにして、きっと気持ち悪く思ったんだろう、と。
一度芽生えた自己嫌悪の種は、離脱症状による鬱状態の中で毒々しく根を張り、
MIUから表情と食欲を奪い去った。
あんなに愛おしく自分を抱いた彼の手が、今は自分を拒絶しているような気がしてならない。
「MIUちゃーん! 見て、今日は新作のグミ全種類買ってきたよ!」
病室のドアが勢いよく開き、カイがコンビニ袋をガサガサと鳴らしながら入ってきた。
その後ろから、ユウキがいつものように静かな足取りで続く。
MIUは視線さえ向けず、ただシーツの皺を見つめていた。
「ほら、これ。MIUちゃんが前に『可愛い』って言ってた期間限定のやつ。一個食べる?
俺が袋開けてあげようか?」
カイはベッドサイドに腰掛け、覗き込むように笑いかける。
その明るさは、静まり返った病室では、あまりに痛々しいほど努められたものだった。
MIUは小さく首を横に振る。
「……ごめんなさい。食べられなそう」
「そっか……。じゃあ、ここに置いとくね。夜中にお腹空いたら食べて?」
カイの顔から、一瞬だけ寂しさが零れた。
けれど、すぐにまた無理な笑顔で塗りつぶす。
そんな彼を横目に、ユウキが最新のファッション雑誌をテーブルへ置いた。
「MIU、これ。今月号、君が好きそうなブランドの特集だった」
そして、少し間を置いてから続ける。
「……それと」
ユウキは眼鏡のブリッジを押し上げ、静かな声で言った。
「レンのやつ、とうとう風呂をキャンセルして……匂うTシャツをずっと着てる。
MIUが帰ってこないと、風呂に入る意味もないんだと」
レンという名前が出た瞬間、MIUの指先が微かに震えた。
けれど、彼女が顔を上げることはなかった。
「……嘘。レンくん、私のことなんて、もう忘れてるよ」
「そんなわけないじゃん!」
カイが堪えきれず声を荒らげ、すぐにハッとして声を落とした。
「……レンくん、毎日荒れてるんだよ? MIUちゃんがいないから、
家の中めちゃくちゃなんだから。俺とユウキくんで止めるの、大変なんだよ」
カイは震える声のまま続けた。
「だからさ、早く帰ってきてよ。四人で、またバカ笑いしようよ」
カイの必死な訴えも、ユウキが運んできたレンの生活の断片も、今のMIUには自分を追い詰める刃にしか感じられなかった。
みんなの優しさが怖かった。
MIUは、自分の肩を爪を立てるように強く掴む。
「……ごめん。二人とも、もう帰って。一人で……寝たいの」
MIUの声は、消え入りそうなほど細かった。
「……分かった。また明日も来るから」
ユウキはそれ以上追及せず、カイの肩を軽く叩いて促した。
重い足取りで病室を出た後、廊下に出たカイが、堪えきれずに呟く。
「……ユウキくん。MIUちゃん、どんどん透き通っていっちゃうみたいだ……。
隣にいるのに、どこにもいないみたいで……怖いよ」
ユウキは答えず、ただ無機質な壁に背を預けた。
「先生、もう限界です。ここにいたら、彼女の心が死んでしまう」
八日目の朝。
ユウキは医師の前に立ち、静かだが断固とした口調で告げた。
本来なら、経過観察と精神科的なアプローチのため、あと一週間は入院が必要なケースだった。
けれど、ユウキとカイは食い下がった。
「僕たちが責任を持って、二十四時間体制で見守ります」
ユウキが低く言う。
「彼女には、あの家と……アイツが必要なんです」
カイも、いつになく真剣な眼差しで医師を見つめた。
医学や法律では救えない領域が、自分たちの部屋にはあるのだと信じて。
二人の必死な、そして論理的な説得に、医師もようやく折れた。
──あくまで自己責任での退院。
その条件付きで、MIUは予定より大幅に早く、病院という檻を解き放たれることになった。
退院の手続きを終え、ユウキが呼んだタクシーに乗り込む際も、MIUは操り人形のように力なく揺れていた。
「MIUちゃん、もうすぐお家だよ」
隣でカイが、励ますように手を握る。
「レンくん、リビングのソファでずっと待ってるからね」
けれどMIUは、ただ窓の外を流れる歌舞伎町の濁った景色を、虚ろな目で見つめ返していた。
再会の瞬間への恐怖。
それでも彼に触れたいという渇望。
MIUの手は、カイに握られたまま小さく震えていた。
第30話 馴染んだ体温
玄関のドアが開く。
漂ってきたのは、生活の乱れを象徴するような、重く澱んだ空気だった。
リビングのソファに、レンがいた。
まともに風呂にも入っていないのだろう。
金髪は脂ぎって束になり、無精髭が顎を覆っている。
着古したスウェットからは、タバコのヤニと、男特有の汗の匂い。
そして、「絶望」を煮詰めたような饐えた空気が滲んでいた。
「……ッ、MIU」
レンの声は掠れ、地を這うように低かった。
MIUはその声を聞いた瞬間、足が止まった。
会いたくて堪らなかったはずなのに、いざ目の前にすると、自分が「見捨てられたはずの存在」であるという思いが全身を縛り付ける。
MIUが顔を伏せ、震える肩を抱いて後ずさろうとした、その時だった。
「どこ見てんだよ。こっち見ろ」
レンがMIUの細い手首を掴んで引き寄せた。
そのまま、逃がさないように力任せに抱きしめる。
鼻腔を突くのは、清潔な病院では決して嗅ぐことのなかった、不規則で、不衛生で、けれどどうしようもなく愛おしい「レンの匂い」だった。
「……あ、……っ。レンくん……ごめんなさい、私……汚い……」
「バカか。汚ねぇのは俺の方だ」
レンはMIUの首筋に顔を埋め、深く息を吸い込む。
「……一歩も動く気がしなかった。お前がいねぇから、風呂の入り方も忘れたわ」
そして、掠れた声で呟いた。
「……生きてる。……お前、まだ生きてんな」
その体温と、服に染み付いた体臭が、MIUの凍りついていた感覚を少しずつ溶かしていく。
レンもまた、自分と同じように泥の底まで落ちて、自分を待っていた。
その事実が、どんな慰めの言葉よりもMIUを救った。
「……ココア、飲むか」
不意に背後から、ユウキが静かな声をかけた。
「カイ。お前はレンを風呂に放り込んでこい。そのままじゃMIUに匂いが移る」
「了解! よーしレンくん、MIUちゃんも帰ってきたことだし、強制洗浄タイムだよ!」
カイがいつも通りの調子でレンの背中を叩く。
「っせーな……」
レンは悪態をつきながらも、掴んでいたMIUの手を名残惜しそうに離した。
「……MIU。お前も来い。男のガチの汚ねぇの見せてやるから」
「そんなのMIUちゃんに見せちゃダメ!」
「MIUも風呂入ってねぇだろうが」
「女と男じゃ違うでしょ。一緒に入ったら後悔するのはレンくんの方だと思うよ」
レンの不器用な、けれどいつもの雰囲気。
いつもの声。
聞き慣れた言葉遣い。
それらに触れて、MIUの頬に数日ぶりの赤みが差した。
結局、湯気が立ち込める狭いバスルームには、不釣り合いな三人の影がひしめいていた。
「ほらレンくん、じっとして! 泡が目に入るよ」
「っせーな……子供扱いすんじゃねぇよ。……いっ、てぇ! 今のわざと泡入れたろ!」
「犬洗ってるんじゃないんだからさ、そんなに動かないでよ」
カイは美容師らしく手際よくレンの金髪を泡立てている。
一週間放置され、脂とヤニで固まっていた髪が、カイの指先で少しずつ解かれていく。
レンは風呂椅子に窮屈そうに座り、悪態をつきながらも、自分の身体を洗っていた。
MIUは久しぶりの湯船に浸かりながら、その光景をぼんやり眺めていた。
シャンプーの甘い香りが、鼻腔に残っていた死の匂いや消毒液の記憶を上書きしていく。
「……MIUちゃん、顔色ちょっと良くなった? 病み上がりなんだから無理はダメだよ」
カイが、泡だらけの手でレンの頭を押さえつけたまま笑いかける。
「……うん。レンくんが、犬みたいで……ちょっと面白い」
「誰が犬だ。……あー、クソ。耳に水入った」
レンが顔をしかめて頭を振ると、泡がMIUの顔に飛んだ。
MIUは笑いながら、その泡を指で掬い取る。
「……レンくん、本当にずっとお風呂入ってなかったんだね」
「当たり前だろ。……お前がいない家で、身綺麗にして何になるんだよ」
シャワーの音にかき消されそうな、低い呟き。
けれど、その言葉にはどんな愛の告白よりも重い執着がこもっていた。
キッチンのユウキは、マグカップへ注ぐお湯の音を聞いていた。
バスルームのドア越しに漏れ聞こえる、カイの明るい声とレンの毒づく声。
そして、それに混じるMIUの小さな笑い声。
(……ようやく、この部屋の空気が入れ替わったな)
ユウキは眼鏡を外し、少しだけ目元を緩めた。
一人でいた一週間のレンは、言葉通り「死に損ない」みたいだった。
それが今、喧騒の中でようやく息を吹き返している。
「よし、レンくん終了! 次、MIUちゃんおいで。極上のヘッドスパしてあげるから」
カイの合図で、レンが立ち上がる。
お湯を浴びて本来の鋭さを取り戻した金髪が、濡れて額に張り付いていた。
レンはMIUの横を通り過ぎる際、彼女のまだ乾いた髪を乱暴にかき回した。
「……おう。しっかり洗ってもらえ。病院の匂い、一ミリも残さねぇように。
……ユウキ、タバコ」
濡れたままの身体でリビングへ出ていくレン。
入れ替わりにMIUがお風呂場の椅子へ座ると、カイの温かい手のひらが、そっと彼女の頭を包み込んだ。
「MIUちゃん、お疲れ様。病院で、ずっと一人で怖かったよね」
「……うん。でも、もう大丈夫」
MIUは小さく目を閉じる。
「……ここの匂いが、一番落ち着くってわかった」
カイがシャワーの温度を確かめる。
ユウキの淹れた、ほろ苦いココアの香りが、少しずつお風呂場まで届き始めていた。
すっかり綺麗になって風呂から上がったMIUは、タオルを頭に巻き、カイのTシャツをワンピース代わりに着て、お気に入りのピンクのビーズクッションへ身体を沈めた。
病院の硬いベッドとは違う、自分の形に合わせてどこまでも沈み込んでいく柔らかさ。
それだけで、張り詰めていた心の糸がぷつりと切れた。
「はい、お待たせ。仕上げの時間だよ」
カイがドライヤーを手に背後へ回り、手慣れた様子でスイッチを入れる。
ヴォーという規則的な音と共に、温かい風がMIUの首筋を撫でた。
カイの指先が優しく髪の間を通るたびに、身体の中にこびりついていた冷たい檻の記憶が、少しずつ剥がれ落ちていく。
ふと、目の前の丸テーブルに、湯気を立てたマグカップが置かれた。
「飲みな。火傷しないように、少しぬるめにしてある」
ユウキが、眼鏡の奥の瞳を和らげて言った。
MIUは両手でカップを包み込む。
カルーアを隠し味に忍ばせた、ユウキ特製の濃厚なココア。
その甘い香りが、鼻先をくすぐる。
ソファの方では、すっかり汚れを落としてさっぱりしたレンが、深く腰掛けて煙草を燻らせていた。
レンは黙ってMIUの様子を見ていたが、不意に視線が合うと、照れ隠しのようにふいっと顔を背けた。
温かいココアを一口含んだ瞬間、MIUの視界が急激に滲んだ。
ボタボタと、止めどなく大きな涙がこぼれ落ち、ココアの表面に波紋を作る。
(……ああ、私、本当に帰ってきたんだ)
自分はもう、誰からも愛されないと思っていた。
愛されてはいけないと思った。
家を飛び出して、自暴自棄になってしまったあの夜。
暗い病室で絶望の底に沈んでいた七日間。
そんな自分を、この人たちは当たり前みたいに「日常」へ引き戻し、こんなにも愛おしい時間をまたくれる。
「わっ、MIUちゃん!? ごめん、引っ張った? 痛かった?」
慌ててドライヤーを止めるカイに、MIUは首を振って声を震わせた。
「……ちがうの。……あったかくて……」
「……泣くな。せっかく綺麗にした顔が台無しだろ」
レンがソファから手を伸ばし、MIUの頭を乱暴に、けれど壊れ物を扱うみたいな優しさで撫でる。
ユウキは静かにキッチンへ戻り、残りの二人にも飲み物を用意し始めた。
ドライヤーの音。
煙草の匂い。
甘いココアの湯気。
歌舞伎町の喧騒さえも遠くに感じるこの部屋で、MIUは三人の体温に守られながら、
自分が再び「生きていていい存在」になれるかもしれないと思えた。
この歪で完璧な四人の共同生活。
それが彼女にとっての、唯一にして最強の処方箋だった。
第31話 やさしい鎖
深夜のシェアハウス。
ユウキはBARの夜勤に出かけ、カイは疲れ果てて奥の部屋で泥のように眠っている。
リビングのソファに深く沈み、MIUは冷めきったココアのカップを両手で包んでいた。
退院してからもずっと、彼女の頭の中には「死」という文字が、薄く、けれど決して消えない残像みたいに焼き付いている。
その思考を断ち切るように、隣に座るレンが重い口を開いた。
「……MIU。嫌な記憶だろうが、聞いてほしい話がある。前の俺の部屋のことだ」
MIUはビクッと肩を揺らし、レンを見つめた。
レンの瞳は、歌舞伎町の夜の闇をそのまま映したみたいに濁っていて、けれどそこには、自分の内臓を引き摺り出すような覚悟が宿っていた。
「俺の仕事は、お前が病院で必死に抜いてきた『毒』を、この街にばら撒くことだ」
レンは低く言う。
「俺はプッシャーだよ。お前をあんな目に合わせた奴らと同じ、救いようのねぇクズだ」
レンはわざと吐き捨てるように言い、MIUの反応を待つみたいに視線を逸らさなかった。
MIUの息が止まる。
「幻滅したか? それが正解だよ」
レンは乾いた笑いを漏らした。
「俺はもう、お前に嘘をつくの、やめた。お前を救いたいなんて言いながら、裏ではお前を壊せるもんを売ってる。……今回の事件は、完全に俺のせいだ」
レンの喉が、苦しそうに上下する。
「ごめん、MIU」
普段なら「悪かったな」とぶっきらぼうに流すはずの男の、あまりに剥き出しな謝罪。
MIUは煙草の煙に目を細めながら、レンの横顔をじっと見つめた。
「……でも、レンくんは助けてくれた」
掠れた声で、MIUが言う。
「暗いところにいた私を、見つけてくれた。……あの時の人たちとは、全然違うよ」
「違わねぇよ。俺だって、お前をどうにでもできた」
そこでレンの言葉が止まった。
沈黙の中で、カチ、カチ……と、冷めたココアのカップが微かに震える音だけが響く。
レンは吸い殻を灰皿に押し付け、逃げるみたいに視線を落とした。
「そうしないのは、
……お前と、ずっと一緒にいたかったからだ。
それ以外の理由はねぇよ」
心臓の鼓動が耳元まで跳ね上がった。
レンは今まで、ユウキやカイに対しては
「あいつを愛そうぜ」なんて格好つけたことを言っていた。
けれど、当の本人であるMIUには、一度もそんな言葉を向けたことはなかった。
MIUが息を呑んで顔を上げると、レンの耳たぶまで、夜の薄暗がりの中でも分かるほど赤く染まっている。
目が合った。
そこには強気なプッシャーの顔はなく、ただ一人の、恋に無様な男の瞳があった。
「……あ。……いや、だからさ」
レンは片手で乱暴に顔を覆い、バツが悪そうに声を絞り出した。
「だから何が言いたいかっていうと……俺は、自分の真っ黒なところも、こういうダセぇとこも、今全部見せた。だからお前も、もう隠すな」
レンがMIUの細い肩を、壊れ物を扱うような手つきで引き寄せる。
「死にたい時は、死にたいって言え。
……いいか、『死ななきゃ』って思い込む前に、『死にてぇ』って俺に吐き出せ」
「でも……そんなこと言ったら、みんな困っちゃうよ」
MIUの瞳から、堪えていた涙が溢れ出した。
「せっかく助けて、一緒にいてくれてるのに……」
その言葉こそが、彼女を追い詰めていた「優しさという名の檻」だった。
レンは鼻で笑い、彼女の頭を乱暴に、けれど温かく撫でた。
「困らせろよ。俺らはお前のために……違うな」
レンは少しだけ目を伏せる。
「お前といたくて、わざわざこんな生活を選んだんだ。今さら綺麗事なんて求めてねぇよ」
そして再び、MIUの目を真っ直ぐ見据えた。
深い、深い決意を宿した瞳で。
「もしお前が、どうしても死にたくなったら
──その時は、『俺が先に死ぬから待て』って言ってやる」
「え……?」
「俺みたいな仕事してりゃ、いつ警察にパクられるか、裏で刺されるか分かんねぇ」
レンは自嘲気味に笑った。
「お前より先に死ぬ自信ならある。だから、俺が死ぬまでは、お前は順番待ちだ」
レンの手が、MIUの頬を伝う涙を親指で拭った。
「……俺が先に逝くその日まで、俺を待たなきゃいけないっていう、どうでもいい理由でいい。
死ぬのは踏みとどまれ」
MIUは、レンのジャージの袖を強く握りしめた。
「『死にたい』と思うなとは言わない。そんなの、お前の自由だ」
レンの声は、どこまでも静かだった。
「でも、俺に黙って勝手に行こうとすんな。
隠さないで、俺にその汚ねぇ気持ちを全部ぶつけろ。……いいな?」
MIUは震える唇で、小さく息を吐く。
「……待ってれば、いいの?」
「ああ」
レンは迷いなく答えた。
「俺が先に逝く。それまでは、俺の隣で順番待ちしてろ」
レンの言葉は、決して彼女を光り輝く未来へ連れ出すものではなかった。
けれど、共に地獄の底で「死の順番」を待つというその約束は、今のMIUにとって、どんな希望の言葉よりも深く、強く、彼女をこの世界に繋ぎ止める楔となった。
第32話 四人でいるための壊れ方
歌舞伎町の朝は、街が死んだみたいに静まり返る時間だ。
薄い陽光がレースカーテンを透かし、回らないミラーボールに反射した朝の光が、キラキラと部屋の中へ砕け散っている。
広いベッドの中で、MIUは肌に触れる複数の体温を感じながら目を覚ました。
四人がかりでようやく収まるキングサイズのシーツ。
右側にはレンの熱い身体。
左側にはカイの柔らかな髪の匂い。
足元には、半分身を起こしてスマホをいじっているユウキの脚の重み。
かつて孤独に怯え、冷たい夜を彷徨っていたMIUにとって、この「誰かが隣にいる」という過剰なまでの重みこそが、自分を現世へ繋ぎ止める唯一の錨だった。
「……ん、みんな、おはよう」
微睡みの中でMIUが呟くと、カイが「あ、MIUちゃん起きた? おはよ!」と弾んだ声を返し、そのままベッドから這い出していく。
リビングでは、いつもの朝の風景が始まっていた。
壁際のウォールシェルフには、『I♡歌舞伎町』の文字を象ったピンクのネオンライト。
引っ越し初日にレンがどこからか掠めてきたそれは、昼夜を問わず二十四時間、毒々しくも鮮やかな光を放ち続けている。
その光に照らされているのは、MIUがゲームセンターで釣り上げた山みたいなぬいぐるみや、安っぽいキーホルダーたちだ。
かつては「隠さなければ捨てられる」と怯えていた戦利品。
それらは今、この部屋の守り神みたいに壁際を埋め尽くしている。
ふと、ベッド脇の壁に視線が止まった。
そこには、MIUの入院中にレンが叩きつけた拳の痕。
一部がひび割れ、今にも穴が開きそうな壁が、そのまま残されている。
カイが「アートだから」と笑いながらぬいぐるみを飾って隠そうとした。
けれどレンは、「そのままでいい」と拒んだ。
それは、彼女がいなかった七日間の絶望を、この部屋から消さないための傷跡だった。
カイが手際よくビーズクッションをローテーブルの周りへ集め、四人が沈み込むための「巣」を整えていく。
キッチンでは、ユウキが豆を挽く静かな音とともに、深いコーヒーの香りを漂わせていた。
そこへ、寝癖だらけのレンが、指に煙草を挟んだままふらふらと歩いてくる。
「……おいレン。火を点けるなら換気扇の前に行けと言ってるだろ。MIUの髪に匂いが移る」
「あー、わかってるよ。うるせぇな……」
ユウキに鋭く牽制され、レンはぶつぶつ悪態をつきながらも、素直にバルコニー側へ歩いていった。
その背中を、MIUはクッションに深く沈み込みながら見つめていた。
淹れたてのコーヒーと、コンビニのパン。
豪華ではないけれど、四人の性格がそのまま滲んだ食卓。
ピンクのネオンが、マグカップの縁を淡く染めている。
ふとした沈黙の隙間に、MIUの胸の奥からいつもの「癖」が顔を出した。
幸せであればあるほど、その先にある終わりを予感して怖くなる。
胸の奥がチリチリと焼け、出口のない空虚さが喉までせり上がってくる。
「……ねぇ。私、……死にたい」
それは助けを求める叫びではなく。
今日の天気を口にするみたいな、日常へ溶け込んだ独り言だった。
一瞬だけ、部屋の空気が静止する。
けれど、誰も顔を伏せたりはしなかった。
「……俺が先に死ぬから、待て」
レンが紫煙を吐き出しながら、低く笑った。
「お前はその後だ。俺を待たせるなんて、死んでも許さねぇからな」
「俺が先だ。順番を守れ」
ユウキがコーヒーカップを静かに置き、レンとMIUを交互にじろりと見た。
「一人で逝かせるほど、物分かりは良くない。
俺が逝くのを見届けてからにしろ。レン、お前もだぞ」
「えー、二人ともずるいな~!」
カイがMIUの隣へぴたりとくっつき、その手をぎゅっと握る。
「俺は四人一緒が理想だけど……。
MIUちゃん、今日もかわいいね。最期の日も、俺にヘアメイクさせてね」
突き放すみたいなレンの言葉。
独占欲の強いユウキの論理。
そして、無邪気なカイの献身。
三者三様の「拒絶」が、MIUの「死にたい」を、優しく、
そして強引にこの部屋へ繋ぎ止める。
ピンクの光の中で、並んだぬいぐるみたちが彼女を見守っている。
(……ああ。やっぱり、勝てないや)
MIUは小さく吹き出した。
死にたい気持ちは消えない。
傷跡も、過去の汚泥も、きっと一生背負っていく。
けれど、この「順番待ち」の約束がある限り。
死ねなかった夜の積み重なりが、ただ明日へ変わっていくだけ。
そうやって、この地獄みたいで、けれど愛おしい街で生きていける。
「……わかった。じゃあ、順番待ち、してあげる」
MIUがコーヒーを一口飲む。
苦味のあとに、確かな熱が体温へ混ざった。
窓の外では歌舞伎町が動き始めていて、
止まったミラーボールが朝の光をばらばらに砕いている。
壊れた壁も。
消えないネオンも。
趣味の悪いぬいぐるみも。
四人のメカニズムコーピングは、今日もこの狭い部屋で、正しく、歪に機能し続けていた。
溶け合う四人の日常は、これからもずっと、続いていく。
第33話 今はまだ幸福
午前零時を回った頃には、部屋はもう、めちゃくちゃだった。
床には飲み終わった缶チューハイが転がり、ポップコーンが散乱し、開きっぱなしのコスメポーチが放置されている。
白いレースカーテンの向こうでは、雨上がりの歌舞伎町がネオンを滲ませていた。
ベッドの真上では、壊れかけの回らないミラーボールが、鈍く煌めく光を反射している。
その光の下で、MIUはぼんやりと鏡の前に立ち尽くしていた。
「……え、これ、ほんとに私?」
白いドレスは、ウェディングドレスというより、
歌舞伎町の夜に似合うキャバドレスに近かった。
細い肩を見せるレース。
揺れるスカート。
ティアラには、小さなラインストーンがちりばめられている。
「いや、ほんとマジで天才。かわいすぎ」
背後で、カイが満足そうに頷いた。
ヘアアイロンを置きながら、何度も鏡越しにMIUを見ている。
「待って、ちょっと横向いて。……あーだめ、かわいい。
レンくん! ちゃんと見て! これ!」
「見てるっつーの」
ソファに座っていたレンが、煙草を咥えたまま顔を上げる。
その瞬間、ほんの一瞬だけ言葉を失った。
白いドレス。
露出した肩。
揺れる黒髪。
ネオンを映す瞳。
レンは視線を逸らすように煙を吐き出した。
「……やば」
「うわ、レンくん語彙死んでる」
「うるせぇ」
カイがゲラゲラ笑う。
キッチン側では、ユウキが静かにグラスへシャンパンを注いでいた。
テーブルの上には、小さなホールケーキ。
ロウソクは四本。
「写真撮る前に飲むなよ」
「えー」
「もう飲んでるだろ、MIU」
「ちょっとだけぇ……」
ユウキは呆れたように眉を下げながら、それでもスマホを構えた。
カシャ。
シャッター音。
その音に、MIUは少しだけ目を細める。
「ユウキくん、今日ずっと撮ってる」
「……忘れるから」
「なにそれ」
「後で見返せるだろ」
それだけ言って、またシャッターを切る。
本当は、失いたくないだけだった。
ミラーボールの光が、四人の髪をゆっくり滑っていく。
レンは煙草を揉み消しながら、ぼそりと呟いた。
「……誕生日くらい、派手でもいいだろ」
「レンくんが一番張り切ってたくせに」
「張り切ってねぇよ」
「いや、ウェディングっぽくしようって言い出したのレンくんじゃん」
「うるせぇ」
レンの耳が少し赤い。
カイは腹を抱えて笑いながら、ティアラの位置を直した。
「でも、大正解。普通の誕生日じゃつまんなくない?
MIUちゃん、人生でこういうのやる機会ないかもじゃん。……俺らのせいですけど」
その瞬間、部屋が少しだけ静かになった。
MIUは小さく瞬きをする。
人生で、こういう機会。
白いドレスで、ティアラをまとって。
人生で一番綺麗な姿を、大好きな人に見せて、誓いを交わす。
この四人には、ないかもしれない。
祝われる日。
愛される日。
“生まれてきてよかった”みたいな空気の日。
苦手だった。
なくなりそうで。
こんなふうに見られるのも。
笑いかけられるのも。
幸せそうだと言われるのも。
全部。
少し、怖かった。
でも。
ユウキがコーヒーを淹れて。
カイが髪を触って。
レンが煙草臭い指で頭を撫でる、この部屋だけは。
少しだけ。
生きていてもいい気がしてしまう。
「……幸せすぎて、死にたい」
ぽつり、とMIUが呟く。
カイが「重っ!」と笑い、ユウキが無言で写真を撮る。
レンだけが、少し目を細めた。
「俺が先に死ぬから、それまで待てよ」
「俺が先だ。順番守れ。レン、お前が一番守れ」
「なんでだよ」
「四人一緒に、でしょ」
カイが笑いながら、MIUの肩へ頬を寄せる。
「でも、今日もMIUちゃん、めっちゃかわいいね」
ミラーボールの光が揺れる。
ネオンが白いレースカーテンを透かしていた。
壊れたまま生きる四人だけの、小さな誓いみたいな夜だった。
◇
――歌舞伎町のはずれ、マンションの五階。
外から見た部屋は、レースカーテンがピンクのネオンに薄く染められ、春の風に揺れているようだった。
やがて、バルコニーに二つの影が落ちる。
MIUとレンだった。
MIUはドレスを脱ぎ、ユウキから誕生日プレゼントにもらった、ゆったりした白いワンピースへ着替えている。
病院へ行く時も、今までは借りた服やミニスカートだった。
だから、おばあちゃん達の視線が痛かった。
でも、これなら安心。
さっきのウェディングドレスは、カイからのプレゼント。
ティアラも、髪飾りも、リップまで全部くれた。
ドレスは今、ワードローブの中に掛けられている。
レンは「ん」とだけ言って、小さな白い紙袋を差し出した。
MIUは受け取り、中から箱を取り出す。
「これ……」
箱の中には、銀色のリング。
小さな宝石が一粒だけ埋め込まれている。
「……ちゃんとチェーンある」
「ほんとだ……ありがと、レンくん」
「いや、別に大した意味ねぇけど」
「……レンくん、顔真っ赤」
「うるせぇ、貸せよ」
レンが後ろへ回り、ネックレスをつけてやる。
細いチェーンは目立たなくて、夜の光にだけ微かに反射した。
「……はじめて」
「そんなことねぇよ。ビーズクッションとか買ったろ」
「違うよ。こんなの、人生ではじめて」
レンはバルコニーの柵へ肘をつき、外を向いた。
「そうかよ」
その耳は、さっきより赤く見えた。
「ありがとう、レンくん」
MIUは微笑み、部屋を振り返る。
白いレースカーテンの向こう側。
『I♡歌舞伎町』のピンクのネオンライト。
お気に入りのぬいぐるみとキーホルダー。
バルコニーのすぐ近く、天井にはミラーボール。
キラキラした光を追いかけると、
キングサイズのベッドがあって、カイとユウキが眠っている。
今日は、きっといつもより重力が軽かった。
春の湿った空気は、ちょうどよくて、少し怖い。
今日が終わらないでほしい。
「レンくん」
レンが振り返る。
MIUは服の袖を、そっと掴んだ。
「あたためて……死ぬまで気持ちよくなろ」
レンは少しだけ目を細め、MIUの額を小突いた。
「縁起でもねぇこと言うな」
「だって、今日、終わっちゃう」
「終わんねぇよ。明日も似たようなもんだろ」
「それが怖いの」
レンは何も言わなかった。
代わりに、煙草の匂いが残るパーカーを、MIUの肩へ引っ掛ける。
部屋の中では、カイが寝返りを打って、
「MIUちゃん、お姫様みたい……」
と、寝言を漏らした。
ユウキはソファにもたれたまま眠っている。
手の中には、写真フォルダを開いたスマホ。
ミラーボールの光が、ゆっくりと天井を滑っていく。
レンは小さくため息を吐き、MIUを抱き上げた。
「ほら、風邪引く。戻るぞ」
「ん」
――歌舞伎町のはずれ、マンションの五階。
外から見た部屋は、レースカーテンがピンクのネオンに染められ、
春の風に少しだけ狂い始めていた。
(歌舞伎町青宵ポリ・完)
この夜にいた。
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