
俺たち二人は、 それでもまだここにいた。
⚠️ R15
性描写・暴力描写・薬物描写を含みます。 精神的に不安定な表現があります。
歌舞伎町残影ポリ
第1話
「ふたり暮らし」
ピンクのネオンが、部屋の壁でゆらゆら揺れていた。
小さなミラーボールが窓の外の光を拾って、
狭いワンルームの天井や床に、薄い色を砕いて散らしている。
テーブルの上には、缶チューハイが四つ並んでいた。
冷えた缶の表面に水滴が浮いて、
丸テーブルの上に小さな輪をいくつも作っている。
「またアイス食べてんの?」
「アイスはいつ食べても正義」
金髪がタバコの煙と共に揺れる。
「それ三本目だろ」
「まだ二本目」
誰かが笑った。
「ずっとこのままでいれたら最高だね」
女の声がした。
黒い髪が揺れて、
誰かの笑い声がそれに重なる。
缶を開ける音。
ビーズクッションが沈む音。
誰かの足が、誰かの足に触れる気配。
ネオンのピンクが、四人の顔を同じ色に染めていた。
ここだけが、完璧だった。
その光景が、ぶつりと切れた。
アラームの音が、耳の奥でうるさく鳴っている。
カイは眉をしかめて飛び起きた。
枕元のスマホを掴んで時間を見る。
八時半。
「うわ、やば……」
声が掠れる。
美容院の開店準備まで、もう四十分もない。
夢の中の声がまだ耳に残っていて、
現実の部屋の狭さに頭がついていかない。
布団を蹴って立ち上がろうとした瞬間、
足がビーズクッションに引っかかった。
「っわ」
積み上げていたクッションがどさっと崩れる。
カイはよろけて、丸テーブルの角に膝をぶつけた。
「いっ……」
ガラスの灰皿がカタンと鳴る。
その横におかれた小さい空き缶の灰皿の底に沈んだ吸い殻が二本、朝の光を鈍く返した。
マットレスの端で、ユウキが毛布から顔だけ出した。
まだ半分寝ている顔で、カイの方を見る。
「……何してんだよ」
「ごめん、起こした」
カイは膝をさすりながら、散らばったビーズクッションを蹴るようにして立ち上がる。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
そもそも、この丸テーブルの配置からして邪魔だった。
正面にソファ。その対面にクイーンサイズのマットレス。
男二人の生活動線なんて無視して、寝床とくつろぎの場が無理やり向かい合っている。
「ゴミも出せなかった」
カイが派手な色のリュックを引っ掴みながら言う。
足元には、空き缶の入ったビニール袋が転がっていた。
「鍵、財布……あー、やば」
玄関でごそごそやってから、カイが振り返る。
「ユウキくん、鍵お願い」
「ん」
ユウキが短く返す。
カイはそのままドアを開けて飛び出していった。
雨の残りみたいな湿った空気が、一瞬だけ入ってきて、蝉の声が一瞬したがすぐにドアが閉まり、消えていった。
部屋が静かになった。
ユウキはしばらく天井を見ていた。
それから、ゆっくり起き上がる。
崩れたビーズクッションをひとつずつ持ち上げて、部屋の角へ戻す。
一個、二個、三個。
自然に積み上げてから、ふと手が止まった。
三つもいらないだろ、と前にも思った気がする。
でも減らさないまま、ずっとそこにある。
ユウキは思考を打ち切るように手を離した。
次に、丸テーブルの灰皿へ手を伸ばす。
ガラスの重い灰皿を中央へきっちり戻すと、その手前には、空き缶を潰して作った無造作な灰皿が取り残されていた。
ユウキはそれを見て、少しだけ眉を寄せる。
けれど何も言わず、そのままにした。
視線を上げると、マットレスと壁の隙間にワードロープがぴったりと収まっている。
吊るされた黒いミニワンピースが、朝の光の中で静かに揺れていた。
その隣には、見覚えのある派手なカラーのジャケット。
ソファの真後ろの壁には『I♡歌舞伎町』のネオン。安っぽいピンクの光が、朝の部屋にはひどく場違いだった。
その下の細い棚には、UFOキャッチャーの景品や、誰の趣味とも言い切れない小物が、整理されないまま並んでいた。
棚の端にぶら下がったアクリルキーホルダーのひとつには、MIUの名前が入っている。
もう誰も持ち歩かないのに、
それだけがずっと、そのままだった。
壁の写真は、朝の光の中だと少し見えにくかった。
ネオンで色が飛んでいて、
誰がどういう顔で笑っているのか、逆によくわからない。
ユウキはシンクへ向かう。
伏せてあったグラスを持ち上げる。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
それを食器棚へ戻していく。
棚の一角だけ、少し空いていた。
ユウキは四つ目のグラスを持ったまま、ほんの一瞬だけ止まる。
その場所に置こうとして、やめた。
少し手前へずらして置く。
空いたままの奥に、薄く埃が溜まっていた。
ユウキはそれを見なかったふりをして、棚を閉める。
全部終わってから、部屋の鍵をかけ直す。
それからまた、マットレスへ戻った。
クイーンサイズの寝床は、男二人で使うには少し狭い。
ユウキはタオルケットを引き寄せて、枕に顔を埋めた。
マットレスが沈む。
目を閉じる。
部屋のどこかに、
まだ誰かの体温が残っている気がした。
もちろん、そんなはずはない。
ピンクのネオンだけが、
朝の光の中、静かに脈打っていた。
まるでこの部屋だけ、夜を終われていないみたいだった。
(第1話「ふたり暮らし」おわり)
第2話
「4人だったころ」
コンビニの棚の前で、二人は並んで立っていた。
冷蔵ケースの冷気が、指先に薄く張りつく。
カイがしゃがみこんだまま、つまみの棚を睨む。
「わさびのかきピー、どこだっけ」
「……期間限定じゃなかったか?」
ユウキが隣で缶ビールを持ち上げながら言う。
カイが顔を上げる。
「マジかよ。レンくんに怒られる」
「怒られねぇし」
「クセで言った」
ユウキが鼻で笑った。
そのまま缶チューハイを二本、カゴに放る。
カイは棚の前で少し迷ってから、チータラを取る。
ユウキはその横で、何も聞かずに炭酸水も一本入れた。
昔から、誰が何を買うかはなんとなく決まっていた。
酒はユウキ、つまみはカイ、甘いものはMIUが勝手に増やして、レンはその場で食いたいものだけ雑に持つ。
もう二人しかいないのに、その買い方だけは今も抜けない。
「休み被るの、久しぶりだな」
カイがカゴを持ちながら言う。
「そうだな。……じゃ、これでいっか」
会計を済ませて、ビニール袋を提げて帰る。
歌舞伎町の夜は、雨上がりみたいに少しだけ湿っていた。
部屋のドアを開けた瞬間、ピンクのネオンがゆらゆらと二人を迎える。
ユウキが靴を脱ぎながら言う。
「なんか今日、暑いな」
「もうクーラーつけよ」
カイが先に部屋へ入って、いつものようにソファの前へ袋を置いた。
その位置も、もう決まっていた。
エアコンのリモコンを手にとって冷房をいれる。
ユウキが缶を冷蔵庫へしまって、すぐ飲む分だけを丸テーブルへ持って来て、カイは座る前に、床へ散らばっていたクッションを足で寄せた。
誰に言われたわけでもないのに、
そういう細かい動きだけは、まだ四人暮らしのままだった。
缶を開ける音が、ほとんど同時に二つ鳴る。
軽くぶつけて、飲む。
それだけで、休みの夜が始まる。
カイは床に座り込んだまま、ケータイをいじっていた。
少ししてから、急に吹き出す。
「この時のユウキくんのダンス、ダサすぎだろ」
ユウキがビール片手に振り返る。
「また見てんのかよ」
「これ何回見ても無理」
カイが画面を見せてくる。
暗いクラブの中で、ネオンに照らされたユウキが妙に真面目な顔で、全然リズムに乗れていない。
「いや、俺より後ろのレン見ろって。あいつ酔いすぎてる」
「ほんとだ、肩で揺れてるだけじゃんか」
カイは目を擦って、さらに笑った。
「しかもこの後、わさびのかきピー袋ごと口に突っ込んでたから」
ユウキが思い出したみたいに笑う。
「ああ、やってたな」
「一粒ずつ食えよって言ったら、なんか言ってた」
ユウキが缶を口元に当てたまま、少し考える。
「……“うん、そろそろ舌がバカになってきた”」
カイが一瞬黙って、それから吹き出した。
「言ってた! 絶対それのせいだわ」
「MIUが、”見てるだけで舌痛くなる、大丈夫?”って言ってた」
「レンくん、ああいう時だけ地味に頑固なんだよな」
二人で少し笑う。
カイはそのまま画面を指で戻して、また同じ動画を再生した。
「でもユウキくんもだいぶひどいよ。なんであんな真顔なの」
「真面目に踊ってたからだろ」
「真面目にやってあれなのが一番ダメなんだって」
「うるせえな」
「MIUちゃんが“ユウキくん、がんばっててかわいい”とか言うやつでしよ」
ユウキが少しだけ顔をしかめる。
「言ってたかもな」
「やさしい追い打ち」
「一番効くやつ」
カイがけらけら笑う。
「レンくんは普通に“だっさ”しか言わないのに、MIUちゃんはちょっとフォローしてくるから余計逃げ場ないんだよな」
「わかる」
「ユウキくん、あの頃ほんとずっといじられてたよな」
「今もだろ」
「今は落ち着いた方だよ」
「どこが」
「昔もっと変だったし」
ユウキが眉を寄せる。
「なんだよそれ」
「酔って、UFOキャッチャーのぬいぐるみ抱えたまま、“こいつ目が死んでる”とか言ってたじゃん」
ユウキが一拍置いて、缶を持ったまま目を逸らした。
「……覚えてねえ」
「ほらな、MIUちゃんめちゃくちゃ笑ってたし」
「そういう時のぬいぐるみ、だいたい部屋にあるだろ」
「そうそう。あれだよ、飾ってある犬みたいなやつ」
カイが笑いながら、出窓の横に寄せてあるいくつかのぬいぐるみを顎で示した。
「ほんと、いらねえのばっか増えてったな」
「壁中、ぬいぐるみでいっぱいにしようって約束したから。でも、変は変。」
「センス終わってたよな」
「言い方」
笑いながら言ったのに、その返事だけ少し静かだった。
カイはすぐにまた画面へ視線を戻す。
「もっと撮っときゃよかったな」
ぽつりと落ちる。
「写真も動画も、思ったより少ねえんだよな」
ユウキは何も言わなかった。
あんなに毎日一緒にいたのに、
残ってるのは、酔ってぶれた写真とか、
途中で切れた動画とか、
どうでもいい瞬間ばっかりだった。
大事な夜ほど、
その時はずっと続く気がして、
わざわざ残そうなんて思わなかった。
代わりに、壁の方へ目をやる。
ネオンの下に飾った一枚の写真が、ぼんやり光っていた。
酔った手で撮ったのか、端が少しだけぶれている。
真ん中にMIU。
その両側にレンとユウキ。
カイは少ししゃがんで、いつもの場所にいた。
今にも四人とも喋り出しそうな顔をしていた。
カイが立ち上がって、冷蔵庫を開ける。
一番上の段に、透明な仕切りケースがまだ置いてある。
蓋の端に、油性ペンで「MIU」と書いてあった。
何も入っていないのに、そこだけずっと空けたままだった。
カイは缶チューハイを二本取り出して、片方をユウキへ投げる。
「ほい」
受け取りながら、ユウキが言う。
「それ、もうおまえのヘアピンとか入れりゃいいのに」
「やだよ、なんか怒られそう」
「誰にだよ」
「MIUちゃんに」
カイはけろっとした顔で言って、写真の前に立つ。
しばらく見上げてから、急に吹き出した。
「この写真のMIUさ」
「ん?」
「いっつも、あれ? パンツ見えてね? って錯覚する」
ユウキが一拍遅れて笑う。
「ごめん、それ俺も思うわ」
「やっぱ!?」
カイが嬉しそうに振り返る。
「でも見えてねーんだよ、それが」
「本人は“かわいいから大丈夫”で押し切るし」
「全然大丈夫じゃねえのに。ギリギリの天才」
「おまえ、服の最終チェック係みたいになってたもんな」
「俺が見てないと一歩で終わる丈の服着るからでしょ」
「いうこときく技もってたしな」
「“それかわいいけど、今日はこっちの方がいいかも”って言うやつ?」
「そうそう。レンと俺が言っても絶対聞かねえのに」
「二人は言い方が雑なんだって」
カイが笑う。
「MIUちゃんかわいい。かわいくてやばい」
満足したみたいに、カイはマットレスの前に戻る。
床に、いつもみたいに座る。
ソファに座るユウキの正面じゃなく、少しマットレスの足元寄りの位置。
ユウキが見下ろす。
「その座り方、逆に疲れねえ?」
「もうこれがいいんだって」
カイが缶を傾けながら言う。
「真ん中にMIUちゃんいて、両側にユウキくんとレンくんいて、俺だけ下にいるのが落ち着くんだよな」
「なんだそれ」
「なんかバランスよくない?」
「知らん」
でも、少しだけわかった。
あの頃の部屋では、だいたいそうだった。
ソファの真ん中にMIUが座る。
レンは肘をかけるみたいにその隣へ座る。
ユウキは飲み物を持ってきたり、灰皿を寄せたりしながら、結局いちばん近くへ落ち着く。
カイは床かビーズクッションに沈んで、足元からずっと喋っている。
誰も決めていないのに、毎回そうなった。
ユウキが前触れなく、くしゃみをひとつした。
カイが振り返って、出窓に置いてあったティッシュ箱をそのまま投げる。
「はい」
「雑」
受け取りながら鼻をかむ。
その音を聞いて、カイがふと思い出したみたいに言う。
「前の部屋でさ、春くらいにベランダで飲んだの、寒くなくてよかったよな」
「ああ」
「花見行こうって言ってたのに、MIUちゃんがケムシ嫌だって」
「で、ベランダ花見になった。桜なんか見えないのに」
二人とも笑う。
この部屋にはベランダがない。
代わりみたいに、出窓がある。
マットレスに座ったまま缶を置けるくらいの高さで、
窓の外のネオンがちょうど見える。
カイが振り返って、出窓の縁をぺしぺし叩いた。
「おまえが俺らのベランダだよ、出窓くん」
「ベランダじゃねえだろ。出窓なんだから」
「気持ちの話」
カイは気にせず酒を飲む。
それから、部屋の角に積まれたビーズクッションを見て、また笑った。
「あの時だよな。レンくんがタバコ落として、ピンクのやつ軽く焦がしたの」
「ああ」
「MIUちゃん、あれで普通に半泣きだったもんな」
「お気に入りだったからな」
「そのあとレンくん、ちゃんと灰皿持ち歩くようになったし」
「……おまえ、見てたのか」
「見てるわ。ユウキくんも同じことするようになったじゃん」
ユウキが小さく笑う。
「ん、バレてたか」
丸テーブルの真ん中には、レンのガラスの灰皿が置いたままだった。
でもユウキが今使っているのは、その手前の少し潰した空き缶だった。
カイがそれを見て、また笑う。
「ほらな」
ユウキは何も言わず、缶チューハイを一口飲んだ。
少しぬるくなっていた。
部屋の中は、変わったようで、ほとんど変わっていない。
ソファの向きも、
テーブルの位置も、
ビーズクッションの焦げ跡も、
誰がどこに座るかも。
四人でいた頃の癖だけが、そのまま残っている。
カイは写真を見上げながら、小さく言った。
「この部屋、最初からこうだったみたいだよな」
ユウキは少しだけ考えてから、缶を置いた。
「いや」
静かに言う。
「俺らがこうしたんだろ」
カイが一瞬だけ黙る。
それから、少しだけ笑った。
「……そっか」
ネオンのピンクが、壁にゆっくり揺れていた。
その光の中で、部屋はまだ四人分の形をしていた。
(第2話「4人だったころ」おわり)
第3話
「世話」
カイがドアを開けた瞬間、雨の匂いが部屋に滑り込んだ。
歌舞伎町の熱帯夜のベタつく空気が、涼しい部屋を少しぬるくする。
虹色の髪が額に張りついて、黄色いTシャツの肩が重たそうに濡れていた。
ユウキはソファにスマホを置き、立ち上がる。
何も考えずにワードロープの下段から、タオルを三枚取った。
一枚をカイに放る。
「うわ、やさし」
カイが笑いながら受け取る。
そのまま頭から雑に被って、わしゃわしゃと拭き始める。
手元に残る二枚を見て、ユウキの手がほんの少しだけ止まった。
前は、三枚じゃ足りなかった。
髪の長いやつがいて、
風呂あがりにすぐ床を濡らすやつがいて、
最後はだいたい、誰かの分が足りなくなった。
その癖だけが、まだ手に残っていた。
ユウキは何も言わずにタオルを戻した。
次に、ドライヤーを取る。
「あ……風呂入るか」
言ってから、自分で少しだけ変な間だと思った。
カイは気にした様子もなく、靴を脱ぎながら頷く。
「ん、入っちゃうわ。全濡れ」
濡れたスニーカーを玄関に雑に揃えて、
Tシャツを脱ぎながらそのままユニットバスへ消えていく。
ドアが閉まる直前、カイが振り返りもせずに言った。
「俺のドライヤー時間、予約しといて」
ユウキが少し遅れて笑う。
「知らねえよ」
でも、手に持ったままのドライヤーは置かなかった。
すぐにシャワーの音が聞こえ始める。
それを聞きながら、ユウキは一度だけ視線を落とした。
手の中のドライヤーが、やけに馴染む。
風呂あがりに髪を乾かすのも、
濡れた服を脱がせるのも、
酔って帰ってきたやつに水を飲ませるのも、
化粧のラメがシーツにつかないうちに顔を拭かせるのも、
前は、もっと自然だった。
考えるより先に身体が動いていた。
それが特別だと思ったことは、一度もなかった。
ガチャ、とドアが開く。
思ったより早かった。
カイが髪をわしゃわしゃ拭きながら出てくる。
頬が少し赤くなっていて、湯気とシャンプーの匂いをまとっていた。
「はや」
「ふつうだし」
カイはそこで、ドライヤーを持ったままのユウキを見た。
一拍置いて、すぐ笑う。
「え、マジで乾かしてくれんの? ラッキー」
そのまま当然みたいな顔で床に座り込む。
マットレスに背中が当たる、ちょうどいつもの位置だった。
ユウキは何も言わず、マットレスの縁に腰かけた。
ドライヤーのスイッチを入れる。
ぶわ、とぬるい風が虹色の髪を揺らした。
美容師の先輩に半分遊びで染められた色だと言っていたけど、濡れると余計におもちゃみたいだった。
光の当たり方で青にも緑にも見えて、根元の黒が少しだけ伸びている。
ユウキは髪を指で軽く持ち上げながら、根元に風を当てる。
短い。
それが、思ったより新鮮だった。
「え?」
カイが振り返りかける。
ユウキは自分が声に出していたことに気づいて、少しだけ眉を寄せた。
「……いや」
ドライヤーを当てたまま言う。
「短いなって」
「あー」
カイはすぐわかったみたいに笑った。
「MIUちゃんと比べて?」
ユウキは答えない。
でも、それで十分だった。
「いやいや、あのツヤツヤのロングヘアーがたまらないんだって」
カイが得意げに言う。
「俺が切るようになってから、かわいさアップしたろ?」
「おまえ、姫カットにするからな」
ユウキは鼻で笑った。
「あれは俺の趣味じゃない」
「えー、あの顔まわりのボリュームが大事なのに。小顔効果知らない?」
「知らん」
「絶対あったって。ていうかMIUちゃん、ああいう顔まわりの毛ちょっとあるだけで一気に“守りたくなる女”感出るじゃん」
「おまえ、その言い方ほんと気持ち悪い時あるな」
「褒めてんのに!?」
カイが抗議して、少し肩をすくめる。
ドライヤーの風で、その濡れた首筋がちらちら見えた。
ユウキは髪をかき上げながら、後頭部に風を当てる。
「MIUに使ってたトリートメント、自分には使わないんだな」
「あれ俺が使ったら頭ツヤツヤのぼっちゃんになる」
「なるほどな」
「てかユウキくん、あれめっちゃ詰め替えさせてたじゃん。すぐなくなるからって」
「おまえら遠慮なく使うからだろ」
「レンくんとか普通に自分も使ってたしな」
「あいつ、そういうとこだけちゃっかりしてたな」
ドライヤーの音の合間に、カイが小さく笑う。
「でもレンくん、MIUちゃんのことに関してはマジで細かかったよな」
「細かいっていうか、見てたな」
「わかる」
カイが少しだけ首を傾ける。
「そこの黒レースのミニワンピとかもさ、誰が買ってきたんだっけ」
ユウキは少し考えて、煙草を吸いたくなる時みたいに目を細めた。
「レンじゃねえか」
「あー、やっぱそうか」
「結局あれがいちばん気に入ってたしな、MIU」
「そうそう」
カイは笑ったまま続ける。
「レンくんさ、MIUちゃんが太ももの横触る癖あるから、この丈より長いとダメとか言い出してて、普通に怖かったもん」
ユウキが吹き出す。
「あったな、そんなの」
「あんな雑そうな顔して、そこ見る?」
「見てたんだろ」
「見てたよなぁ」
少しだけ、会話が静かになる。
ドライヤーの音だけが、部屋の中を埋める。
あの頃は、こういうどうでもいいことを、ずっと喋っていた気がする。
誰かの服のこと、髪のこと、酒のこと、酔い方のこと。
どれもその場ではくだらないのに、今思い出すと、生活そのものだった。
「MIUちゃんさ」
カイが前を向いたまま、ぽつりと言う。
「髪乾かされるの、めっちゃ好きだったよな」
ユウキの手が、ほんの少しだけ止まる。
「……ああ」
「眠そうな顔してさ。途中から、ほぼ目閉じてんの」
「最後の方、毎回ちょっと機嫌よかったな」
「わかる。で、“もうちょっと”とか言うんだよな」
「言う」
その言い方まで思い出せるのが、
たまに少しだけきつかった。
「甘やかされ慣れしすぎなんだって」
「おまえらが甘やかしすぎなんだろ」
「ユウキくんが一番だろ」
即答されて、ユウキは少しだけ眉を寄せた。
「なんでだよ」
「だって水持ってくるのも早いし、服出すのも早いし、ドライヤー持って待ってんじゃん」
「待ってねえよ」
「待ってる」
「待ってない」
「いや待ってる。しかも“別に普通だけど?”みたいな顔でやるのが一番やばい」
ユウキは何も言わなかった。
言い返そうとしたけど、たぶん、だいたい合っていた。
「レンくんは雑そうで一番見てるし、ユウキくんは静かに全部やるし、俺はかわいくするし」
「自分で言うな」
「事実だろ」
カイがけろっとした顔で言う。
「MIUちゃん、ほんと一人で三人使ってたよな」
ユウキが小さく笑った。
「言い方」
「でも違わなくない?」
違わなかった。
風呂あがりの髪を乾かす時間も、
酔って靴を脱がせる時間も、
ピアスを外して、小さいケースに入れてやる時間も、
部屋着を選んで投げる時間も。
たぶん全部、
「世話していた」というより、ただその流れの中に自分たちがいた、という方が近かった。
ドライヤーの風が弱まって、髪がほとんど乾いているのがわかった。
ユウキは最後に前髪を指で整えてから、スイッチを切る。
部屋が急に静かになる。
「はい、おわり」
カイが振り向いて、少しだけ得意げに笑った。
「サンキュー。服も出して」
「は?」
ユウキはドライヤーを片づけながら眉を上げる。
「男にまでやるかよ」
「ちぇー」
カイは口を尖らせながら立ち上がって、ワードロープを漁る。
「ていうかさ、俺いまMIUちゃんと同じ枠で扱われてない?」
「自分で寄せにいっただろ」
「それはそう」
カイは笑いながら、適当に引っ張り出したTシャツを頭から被る。
でも途中で、首元に顔を出したまま止まった。
「……これ、レンくんのじゃん」
「え?」
ユウキが振り返る。
カイはタグを見てから、少しだけ困った顔をした。
「いや、たぶん前に借りて、そのままだったやつ」
黒い無地のTシャツだった。
見た目はなんでもないのに、レンの服だと言われると、急にレンのものにしか見えなくなる。
カイは少しだけ黙ってから、結局そのまま着た。
「まあ、いいか」
ユウキは何も言わない。
ただ、そうだな、と思った。
そういう“まあいいか”で、この部屋はできていた。
その背中を見ながら、ユウキはソファへ移動した。
煙草に火をつける。
じわ、と先が赤くなる。
カイは勝手に服を引っ張り出して、勝手に着替えて、
勝手に機嫌よくしている。
そういう夜が、前にも何度もあった気がした。
「なあ」
Tシャツを引っ張りながら、カイが言う。
「やっぱ人って、誰かに乾かしてもらうと妙に眠くなるよな」
ユウキは煙を吐く。
「ああ」
短く答える。
「あと、ちょっとだけ安心する」
その一言に、ユウキはすぐ返せなかった。
カイはもうそれ以上なにも言わず、
さっきまでユウキが座っていたマットレスの縁に、そのまま座り込む。
雨の音が、まだ窓の外で続いていた。
その夜の部屋は、ひどく狭くて、ちょうどよかった。
ちょうどよすぎることが、
たまに少しだけ、怖かった。
(第3話「世話」おわり)
第4話
「完成された夜」
ユウキの仕事場のBARは、その日はもう閉店していた。
表の看板は落としてある。
シャッターを半分だけ下ろした店内に、カウンターの明かりだけが残っていた。
それでも四人は、まだ帰る気になれなかった。
営業中のざわつきが引いたあとの店は、妙に静かだ。
氷の溶ける音と、グラスの底が木に触れる小さな音だけが、やけに近く聞こえる。
カウンターにグラスが四つ並んでいる。
それだけで、なんとなく安心する夜があった。
MIUはスツールに座って、いつもより少しだけ背筋を伸ばしていた。
長い黒髪が、吊り下げられたランプの光を受けて、艶っぽく揺れる。
黒レースのミニワンピースは、店の照明だといつもより少しだけ大人びて見えた。
「似合うじゃん、その席」
カイが隣から言う。
「何、今日」
MIUが笑う。
「今日のMIUちゃん、なんかBARの女みたい」
「なにそれ、いつもより高く売れそうってこと?」
「そうそう」
「なんかやだぁ」
そう言いながら、MIUは楽しそうだった。
笑うたび、肩の細いストラップが少しだけずれる。
カイがそれを見て、すぐに指先で直す。
「いやでも、マジで今日かわいいって。髪つやっつやだし」
「ありがと。カイが乾かしてくれたからでしょ」
「そうだけど、そう言われると照れるな」
「おまえ、すぐ照れるよな」レンが煙草を咥えたまま言う。
そのくせ、自分はさっきからMIUの横顔ばかり見ている。
「レンくんは褒めないよね」
MIUが口を尖らせる。
「レンくん目が褒めてる、着た瞬間ガン見してたじゃん」
カイがすぐ横から刺す。
レンが少しだけ眉を寄せる。
「おまえうるせえな」
「図星じゃん」
「うるせえ」
言い返しながら、
レンは新しいグラスをカウンターの上で滑らせるみたいにMIUの前へ寄越した。
口は悪いのに、MIUの前の酒だけは、いつも切れない。
「ありがと」
MIUが自然に受け取る。
その受け取り方まで、もう何度も繰り返したものみたいだった。
ユウキはカウンターの向こうで、黙って氷を足した。
誰も頼んでいないのに、
MIUのグラスの氷が減るタイミングも、
レンの煙草の切れ目も、
カイが次に甘い酒を飲みたがることも、
もう身体が勝手に覚えていた。
考えなくても、四人でいる形になる。
それが、あまりにも自然すぎた。
ユウキは手元のグラスを拭き上げ、視線だけをカイに向けた。
「カイ、それ三杯目だろ」
「違う、二・五」
「なんだよ二・五って」
「半分はMIUちゃんが飲んだ」
「言い訳が小学生なんだよ」
ユウキが呆れたように鼻で笑うと、カイは救いを求めるように隣のMIUを振り返る。
「でも飲んだよね?」
「ちょっとだけ?」
「ほら」
「ほらじゃねえよ」レンが笑って、煙を細く吐く。
その煙がランプの光に溶けて、店の空気を少しだけやわらかくした。
店の中は静かだった。
部屋のネオンとは違う、少しだけよそ行きの空気。
でも四人だけになると、それもすぐ崩れる。
ここは、部屋とも外とも違う。
帰りたくない夜にだけ開く、
四人の避難所みたいな場所だった。
MIUがカウンターに頬杖をついて、
グラスの中の氷を指でくるくる回す。
「まだ帰りたくない」
ぽつりと落ちる。
たぶん誰かが先に言うのを、みんな少し待っていた。
その役を、結局いつもMIUが引き受ける。
レンが金髪をかき上げて、鼻で笑った。
「当たり前だろ」
少しだけ間を置いて、
グラスを持ち上げる。
「こんな夜、終わらせられるかよ」
誰も文句を言わなかった。
グラスが、カチンと小さく触れ合う。
MIUが笑うと、
それだけで三人の視線が自然にそっちへ寄る。
ユウキはその光景を、
カウンター越しに見ていた。
たぶん、ずっと見ていた。
見慣れているはずなのに、
その夜は妙に、全部が綺麗だった。
笑っている顔も、
グラスを持つ指も、
煙草の煙も、
カウンターに肘をつく姿勢も、
誰かが誰かに向ける視線も。
それぞれ勝手なのに、
なぜか四人でいる時だけ、ひとつの形になっていた。
完成されすぎている、と思った。
その言葉が先に浮かんで、
ユウキは少しだけ嫌な気持ちになった。
完成しているものは、
壊れる時も、たぶん綺麗に壊れる。
「てかさ」
カイが突然、カウンターの上のコースターをくるくる回し始める。
「この四人、客観的に見たらだいぶ変だよな」
「今さら?」
MIUが笑う。
「いや、でもさ。外から見たら、たぶん意味わかんないじゃん。女ひとりに男三人で、しかも全員距離感おかしいし」
「おまえが一番おかしい」レンが即答する。
「えー、俺だけ?」
「おまえだけじゃないけど、おまえはおまえで別方向に変」
「何それ」
「うるさいし」
「ひど」
カイが不服そうに頬を膨らませる。
その横で、MIUがくすくす笑っていた。
「でも、ちょっとわかる」
グラスの縁を指でなぞりながら、MIUが言う。
「なんか、普通ではないよね」
「不名誉すぎる」
「でも嫌じゃない」
その一言で、また少しだけ空気が静かになる。
誰も、嫌じゃなかった。
それどころか、
たぶん全員が、この形を気に入っていた。
好きだった、じゃなくて、
この形でいると、少しだけ生きやすかった。
それが四人とも同じだったから、
たぶん、余計に離れにくかった。
BARから外へ出たのは、MIUが急に「ネオン浴びたい」と言い出したからだった。
「なにそれ」
ユウキが笑いながら言う。
「わかんないけど、今日なんか浴びたい」
「光合成みたいに言うなよ」
「歌舞伎町で育つ植物なんでしょ、私」
「いや、雑草でももうちょい健康だろ」
レンが言うと、MIUが肩を揺らして笑う。
カイは「それはそう」と勝手に頷いていた。
歌舞伎町の路地は、まだ熱を持っていた。
夜中なのに明るい。
どこを見ても、ピンクや青や紫の光がにじんでいる。
その真ん中を、四人で歩いた。
MIUが真ん中。
左にカイ。
右にレン。
ユウキは少し後ろ。
誰が決めたわけでもないのに、
自然とその並びになる。
ユウキは少し後ろから、その背中を見ていた。
黒髪がネオンを受けて、ところどころ紫っぽく光る。
カイの虹色は派手すぎるくらい派手で、
レンの金髪は夜の中でも妙に目立った。
その真ん中でMIUだけが、するりと輪郭を持っている。
三人とも全然違うのに、
真ん中にMIUがいるだけで、ちゃんと同じ画面に見えた。
MIUが黒レースのミニワンピースの裾を軽く摘んで、
「これ、今日かわいくない?」と振り返る。
「かわいいかわいい」カイがすぐに食いつく。
「その丈、神。足ほっそ」
「軽いんだよなあ」レンが言いながらも、
歩道の段差でふらついたMIUの腰を、当たり前みたいに支えた。
「危な」
「ありがと」
「その酒癖でヒール履くなよ」
「うるさい」
「しかもそれ、あと一歩でパンツ見えるだろ」
ユウキが後ろから言うと、MIUがすぐ振り返る。
「見えないもん」
「ギリギリすぎるんだよ」
「大丈夫だって」
「その“だいじょうぶ”毎回信用ならねえんだよな」カイが笑いながら口を挟む。
「でも今日のこれはマジで当たり。俺、今日のMIUちゃんかなり好き」
「ありがと」
「顔もいいし、髪もいいし、脚もいい」
「褒めすぎ」
「事実だから仕方ない」
「キモ」レンが即座に切る。
「でもレンくんもさっきからめっちゃ見てるじゃん」
「見てねえよ」
「見てる見てる」
「おまえらうるせえ」
MIUが笑う。
その笑い声につられて、ユウキも少しだけ口元を緩めた。
やり取りの全部が、もう手癖みたいだった。
カイがはしゃいで虹色の髪を揺らしながら前に出る。
「てかさ」振り返って、両手を広げる。
「ポリアモリーって言葉、めっちゃかっこよくない?」
レンが即座に笑う。
「また始まった」
「いや、ほんとに。なんかこう……」
カイが酔った頭で一生懸命説明しようとする。
「恋愛ってもっと、チーム戦でよくね? みたいな」
「意味わかんねえ」
「いや、でもわかるかも」
MIUが笑いながら口を挟む。
「なんか、私たちってさ」
そこで少しだけ言葉を探す。
それから、何でもないみたいに笑った。
「ちょっと変で、めっちゃ完成してるよね」
その言い方に、
三人とも一瞬だけ黙った。
誰も否定しなかった。
たぶん、全員少しだけ同じことを思っていた。
完成していた。
このまま、ずっと続くみたいに。
部屋も、酒も、夜も、
変な買い物も、喧嘩にもならない言い合いも、
誰かが酔って、誰かが世話をして、
気づけば朝になっているみたいな生活も。
何も約束していないのに、
たぶん全員、少しだけ信じていた。
だからユウキはその時、
理由もなく、急に残したくなった。
この並びを。
この光を。
この夜を。
なくなるかもしれない、と思ったわけじゃない。
あまりにも当たり前すぎて、このままだと、雑に流れてしまいそうで、それが妙にもったいない気がした。
それに少しだけ、
今ここで残しておかないといけない気もした。
理由は、わからなかった。
「待って」
声をかけると、三人が同時に振り返る。
ユウキはスマホを取り出した。
「なに、撮るの?」
MIUが嬉しそうに言う。
「今日のMIU、残しときたい」
言ってから、少しだけ気まずくなった。
カイがすぐに「うわ、言うじゃん」と笑い、
レンが「キモ」と小さく言う。
「でもわかる」カイがすぐ続ける。「今日、なんか完璧だもん」
「なにそれ」MIUが笑う。
「いや、ほんと。今日の四人、かなりいい感じ」
「四人って言い方もキモいな」
「レンくん、それ今日ずっと照れてるだけじゃん」
「うるせえ」
でも、誰も離れなかった。
むしろ自然に、いつもの形へ収まっていく。
MIUが真ん中で笑う。
レンが肩を抱く。
カイが腰へ腕を回す。
ユウキの手が、後ろから黒髪に少しだけ触れる。
ネオンの下で、四人の腕が自然に重なる。
誰も、欠けていない。
シャッター音が、小さく鳴った。
画面の中の四人は、
絡み合うみたいに寄り添っていた。
少し酔って、少し浮かれて、
でもその並びだけは妙に自然で、
最初からそういう生き物みたいに見えた。
MIUが写真を覗き込んで、
息を弾ませるみたいに笑う。
「あたりまえに狂ってて最高〜!」
「褒めてんのかそれ」レンが笑いながら肩を抱き直す。
カイが「最高だな」と言って、
MIUの髪をぐしゃぐしゃに崩す。
「やだ、やめて!」
「いや、こういうのもかわいい」
「やだ~」
笑いながら逃げようとするMIUを、
レンが雑に引き戻す。
「危ねえから走んな」
「走ってないし」
「いや、今のはちょっと走ってた」
「ユウキくんまで言う」
その夜は、まだ続いた。
どこかへ寄ったかもしれないし、
そのまま部屋へ帰ったのかもしれない。
帰ってから、また飲み直したかもしれないし、
ベッドの上でだらだら写真を見返して、
「これ盛れてる」「盛れてない」で揉めたかもしれない。
でも四人とも、たぶん少しも疑っていなかった。
また次もあると。
また、こういう夜が来ると。
終わるわけがないと思っていた。
──カイの寝息が、部屋に静かに響いている。
ユウキはソファの前で、立ち止まっていた。
『I♡歌舞伎町』のネオンは消していない。
その下の細い棚には、景品やキーホルダーが並んでいる。
壁に貼った一枚の写真の中で、
四人はまだ笑っていた。
ネオンのピンクが少し色を飛ばして、
あの夜の輪郭だけを、ぼんやり浮かび上がらせている。
誰も、欠けていない。
そのはずの形が、
今は紙の中にしか残っていない。
ユウキはしばらく動かなかった。
写真の中の四人は、
今にもまた同じ夜を始めそうな顔をしている。
それが少しだけ、腹立たしかった。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
丸テーブルの上の缶チューハイに手を伸ばし、
プルタブに指をかける。
朝の光が、レースのカーテンの向こうで、
少しずつ白み始めていた。
(第4話「完成された夜」おわり)
第5話
「男3人のベランダ」
その日も四人で酒を飲んで、MIUの言うまま行動した夜だった。
いつものように、コンビニで適当に缶とつまみを買って、部屋へ戻る。
部屋に入るなり、MIUは玄関でヒールを脱ぎ散らかして、そのままベッドへ倒れ込んだ。
「風呂」
ユウキが言う。
「むり……」
シーツに顔を埋めたまま、くぐもった声が返る。
「化粧だけ落とせ」
レンが靴を蹴り寄せながら言うと、MIUは小さくうなって、片手だけ持ち上げた。
「ねえ、カイくん」
「んー?」
「まつげ取って」
カイが笑いながらベッドの脇にしゃがみ込む。
突っ伏したままのMIUの横顔を覗き込んで、器用にまつげの端を摘まんだ。
「今日のこれ、めっちゃ盛れてたのにもったいない」
「もういい……」
「せっかく可愛かったのに」
レンが冷蔵庫から水を一本出して、無言でベッド脇の棚に置く。
ユウキはその横にコンビニ袋を置いて、サラダチキンとゼリー飲料だけ取り出しておいた。
「食えそうならあとで食えよ」
「いらない……」
「明日しぬほど後悔するやつ」
「もう今日じゅうぶんしんでる……」
MIUの声に、カイが吹き出す。
ユウキも少しだけ笑って、ベッドの端に腰を下ろした。
部屋にはネオンの壁飾りと、窓の外の赤や青だけが、床やシーツにまだらに滲んでいる。
他に灯りはない。
窓にはレースのカーテンしかついていない。
遮光の厚いカーテンも一応買ったのに、結局ほとんど使われなかった。
閉め切ると中が見えなくなるから嫌だと、最初に言ったのは誰だったか、今となってはもう曖昧だった。
外からの光も、部屋の中の様子も、ベッドの位置も、ソファの向きも、ベランダの狭さも。
この部屋は、どこにいてもだいたい全部が見えた。
その方が都合がよかった。
「明日朝は絶対無理だから、風呂だけ」
ユウキがもう一度言うと、MIUはベッドの上で芋虫みたいに少しだけ身じろぎした。
「立てる?」カイが聞く。
「たぶん」
「たぶんじゃわかんねえだろ」レンが言う。
その声に、MIUはしばらく黙ってから、ようやくのろのろと起き上がった。
「……レンくん」
「なに」
「お風呂つれてって」
「ガキかよ」
「ガキでいいの」
レンがため息をつきながら立ち上がる。
それを誰も特別なこととして扱わなかった。
浴室の扉が閉まる音がして、しばらくしてからシャワーの音が流れ始める。
ユウキがキッチンのシンクに缶を置いて、袋の中身を適当に出した。
カイはベッドに落ちていたピアスをひとつ拾って、ドレッサーの小皿に戻す。
「ユウキくんがMIUちゃんに強めに何かやれって言うの珍しくない?」
「いや、明日MIUの通院の日だろ」
「あ、そっか。めっちゃ飲ませちゃった」
「誰かついていくし、大丈夫だろ」
浴室の扉が開く音がした。
振り返ると、濡れた髪をタオルで包んだMIUが、すでに半分眠った顔で立っていた。
後ろからレンがついてきている。
「もう限界じゃん」
カイが言うと、MIUは何も言わず、そのままベッドへ戻っていった。
「乾かすぞ」ユウキが声をかける。
「……ん」
返事とも寝言ともつかない声だった。
カイがドライヤーを持ってきて、ユウキがコンセントを差す。
ベッドの縁に座ったMIUの後ろに、ユウキが自然に回る。
レンは台所で、袋から出した缶チューハイを手に取っていた。
温風の音だけが、しばらく部屋に満ちた。
眠たそうに前へ揺れるMIUの頭を、ユウキが片手で支える。
カイは前髪を指先でつまんで、小さく言った。
「これ切るか迷うな」
「切んな」レンが即答する。
「なんで」
「似合ってるから」
「へえ、そういうのわかるんだ」
「うるせえ」
そのやりとりに、MIUがうっすら笑った。
ドライヤーが終わる頃には、もう目もろくに開いていなかった。
ユウキがベッドに寝かせると、MIUはシーツを掴んだまま、あっという間に眠った。
タオルの端だけが、肩のところで少しずれている。
レンがベッド脇の棚に視線をやる。
水、スマホ、リップ、ティッシュ。
それを確認してから、煙草を一本くわえた。
「ベランダ」
「行く」
カイがすぐ立ち上がる。
ユウキは一度だけベッドの方を見てから、黙って灰皿を手に取った。
ベランダは、外側から二つの掃き出し窓を繋げていて横に広い。
室外機の熱がまだこもっていて、夜なのに空気がぬるい。
遠くで救急車の音がして、下の通りからは酔った笑い声が断続的に上がってくる。
細い柵の向こうに、歌舞伎町のネオンが滲んでいた。
部屋の中は、レースカーテン越しに全部見えた。
窓際のベッドも、丸テーブルも、ソファも、ネオンの壁飾りも、ベッドの真ん中で眠るMIUの輪郭も。
誰がどこにいるのか、ひと目でわかる。
ユウキが缶を開ける。
小さな炭酸の音がして、また静かになった。
最初に口を開いたのはカイだった。
「こないだ4人で撮った写真、普通に欲しいな」
「ん、送るわ」ユウキが言う。
「いや、そうじゃなくて。額とか入れて飾りたい」
「おまえそういうの好きだよな」
「好き。だってよくない? 今日のMIUめっちゃ可愛かったし。でも写真は送って」
レンが煙を吐きながら、部屋の中を一度だけ見た。
「寝てる?」ユウキが聞く。
「たぶん」
「たぶんじゃ困る」
「寝てるよ」
「最初からそう言え」
カイが笑う。
レンは面倒くさそうな顔のまま、ベランダの柵に肘を乗せた。
しばらく、誰も喋らなかった。
下の通りを歩く人の声や、どこかの店の重低音だけが、上までうっすら届いてくる。
でも、その沈黙は別に重くなかった。
ユウキは缶を片手に壁へもたれて、カイは狭い足場に器用に体重を預けている。
レンは煙草を持ったまま、外と部屋のちょうど真ん中みたいな位置に立っていた。
なんとなく、その場所にいるのがいつもレンだった。
「明日、病院だっけ」レンが言った。
「十一時」ユウキが短く返す。
「俺、昼から店」カイが言う。「だから午前だけならいける」
「いや、明日は俺休み」ユウキが言った。「俺が行く」
「最近、閉店遅かったろ。寝てろよ」
「昼までなら平気」
「どうせおまえ、帰ってから店寄るだろ」
「まあ」
「じゃあ俺行くわ」レンが言う。
それで話は、ほとんど決まったみたいに終わった。
誰も「付き添い」とか「見てる」とか、そういう言い方はしなかった。
ただ明日の予定を確認するみたいに、当番でも決めるみたいに、誰が行けるかを埋めていくだけだった。
「最近、昼はわりと落ち着いてるし」ユウキが言う。
「今日ちょっと飲みすぎたけどね」カイが笑う。
レンはその言葉には乗らず、部屋の中をもう一度見た。
レース越しに、ベッドの上の影がわずかに動いたのが見えた。
寝返りを打っただけだろう。
でもレンは、煙草を灰皿に押しつける手を一瞬だけ止めた。
「……なに?」カイが気づいて聞く。
「別に」
短く答えて、レンは吸い殻を揉み消した。
ユウキもつられるように窓の向こうを見る。
MIUは静かだった。
「薬、飲んでた?」レンが聞く。
「飲んでた」「保険証」「そこ」「鍵」「かけた」
確認みたいな会話が、ほとんど反射で続く。
カイはそのやりとりを聞きながら、缶の口に唇をつけた。
「なんかさ」
ぽつりと、カイが言う。
「こういうの、ずっと続く気する」
誰もすぐには返さなかった。
ベランダの外を、夜風とも呼べないぬるい空気が流れていく。
下ではまだ誰かが笑っていて、遠くのビルの赤いランプが一定の間隔で瞬いていた。
ユウキが、缶の水滴を親指で拭いながら言う。
「まあ、続くだろ」
「そう?」カイが少し笑う。
「別になくなんないんじゃないか?」ユウキが言う。
その言葉に、レンだけが返事をしなかった。
代わりに、火の消えた煙草を指で弄びながら、窓の向こうのベッドを見ていた。
レース越しの光の中で、眠っているMIUの輪郭はやけに白く見えた。
それを見ていたのは、ほんの数秒だったと思う。
けれど次にレンが口を開いた時、その声はいつも通り、少しだけだるそうで、少しだけ眠そうだった。
「明日、起きなかったら置いてくぞ」
「うそつけ」ユウキが笑う。
「置いてかないくせに」カイも言う。
「うるせえよ」
その返しに、三人とも少しだけ笑った。
誰も深く考えていなかった。
考えないままでいられる夜だった。
ベランダから見えるものは少なくて、部屋の中の方がずっとよく見えた。
だから、たぶん安心していた。
誰かがちゃんと見ている限り、ここから急に何かが消えてしまうことなんて、ない気がしていた。
あの頃は、本気でそう思っていた。
誰がいつ部屋へ戻ったのか、朝になる頃にはもう曖昧だった。
ベランダの空き缶はそのままで、灰皿だけが丸テーブルの端に戻されていた。
レンはソファに横になったまま寝ていて、カイはベッドの足元のビーズクッションに寄りかかるみたいにして潰れている。
ユウキだけ起きていて、水を一本冷蔵庫から出した。
薄い朝の光が、レースカーテン越しにそのまま部屋へ差し込んでくる。
ネオンの色が消えた分だけ、部屋の中の散らかり方がやけに現実的に見えた。
丸テーブルの上の空き缶。
ベッド脇のリップとティッシュ。
カイがまとめておいたピアス。
ベッドの真ん中では、MIUがまだ眠っていた。
昨日の夜よりもさらに深く沈んだみたいに、布団に半分埋もれている。
片腕だけ外に出ていて、爪の先に残ったラメが朝の光で白っぽく光っていた。
ユウキはしばらくその寝顔を見てから、枕元にペットボトルを置いた。
「……MIU」
呼んでも起きない。
肩を軽く揺すると、布団の中で少しだけ身じろぎして、また止まる。
「起きろ」
「……むり」
顔も上げないまま返ってきた声が、すでに泣きそうなくらい眠そうで、ユウキは少しだけ笑う。
「知ってる、今日病院」
「やだ……」
「それも知ってる」
ベッドの下から、カイが小さくうめいた。
「うるさ……」
「おまえも起きろ」
「起きてる……」
起きてる人間の声じゃなかったけれど、カイはビーズクッションに背中を埋めたまま、目だけ開けてそのままベッドの方を見た。
少しぼんやりした顔のまま、MIUの寝癖を見て「終わってる」と呟く。
「顔やばい?」
布団の中から、すぐに返事がくる。
「そこだけ起きるのかよ」
ユウキが呆れると、カイはようやく起き上がり、髪をかき上げつつベッド脇にしゃがみこんだ。
「顔はまだ平気。前髪が終わってる」
「やだ」
「知ってる」
「病院やだ」
「それも知ってる」
同じようなやりとりを、今度は別の人で繰り返しているのが少し可笑しかった。
カイはシーツに埋もれているMIUの顔を覗き込んで、頬にかかった髪を払う。
「とりあえず起きよ。終わったらまた寝れるし」
「うそ」
「ほんと」
「絶対うそ」
「うそではないけど、起きるしかない」
そこで、ソファの方から低い声が飛んできた。
「病院の日に揉めんなよ」
レンだった。
片腕を額に乗せたまま、まだ身体は起こしていない。
けれどその声が混ざるだけで、部屋の空気が少しだけいつもの場所に戻る。
「起きてたのかよ」ユウキが言う。
「さっきからうるせえ」
「じゃあ手伝えよ」
「おまえら二人がかりで起きてねえのに」
そう言いながらも、レンは結局身を起こした。
ベッド脇に立つと、MIUを見下ろして、ためらいなく言った。
「起きろ」
「……やだ」
「うん」
「行きたくない」
「うん」
「……」
「でも行く」
言い方は雑なのに、その返しだけでMIUが少しだけ黙る。
レンはその隙に、枕元のペットボトルを手に取って差し出した。
「飲め」
「あとで……」
「今」
「きもちわるい」
「だから飲め」
しぶしぶ上半身を起こしたMIUの背中に、ユウキが枕を立てる。
カイは髪が顔に落ちないよう、無言で耳にかけた。
三人とも何も相談していないのに、動きだけは噛み合っている。
MIUはレンの手からペットボトルを受け取って、少しだけ口をつけた。
「えらい」ユウキが言うと、半分閉じた目のまま睨まれる。
「それ、犬に言うやつ……」
「じゃあ褒められたくない?」
「……褒めて」
「めんどくせえな」レンがぼそっと言って、カイが笑った。
支度は、いつも通りゆっくりだった。
病院の日に着る服は、なんとなく毎回似ている。
締め付けが少なくて、機嫌が悪くても着られて、待合にいても浮かないもの。
カイがワードロープの前に立って、何着か引っ張り出す。
薄手のワンピースと、くたびれたカーディガン。
それから、前に「これ病院の日っぽい」とMIUが勝手に決めた白い靴下。
「これでいい?」
「やだ」
「なんで」
「白すぎる」
「病院に白すぎるとかある?」
「ある」
「知らない世界」
そう言いながらも、カイはすぐに別のを探す。
その間にユウキは洗面所へ行って、ホットタオルを作って戻ってきた。
「顔だけ拭くぞ」
「やだ」
「知ってる」
「冷たい?」
「ちょうどいい」
タオルを受け取ったカイが、MIUの顔を丁寧に拭っていく。
目元、頬、口元。
少しだけ化粧の残りがタオルに移って、昨夜の名残が薄く消えていく。
「前髪やば」
「言わなくていい」
「でも直す」
「切らないでね」
「今日は切らないよ」
ブラシを通して、小さなクリップで前髪を留める。
それだけで、寝起きのぐしゃぐしゃした顔が少しだけ外向きになる。
ユウキは丸テーブルの上を片づけながら、必要なものを自然に端へ寄せていった。
財布。保険証。診察券。薬手帳。スマホ。
もう何も考えなくても、病院の日に何がいるかは手が覚えている。
「鞄これだろ?」
「たぶん」
「たぶんじゃなくて」
レンが横から薬手帳を抜き取って、ポーチに押し込んだ。
ついでみたいに、テーブルの端に置いてあった薬のシートにも目をやる。
昨夜の分がちゃんと減っているのを見てから、レンは何も言わずに視線を外した。
「ほんと、毎回同じだね」
カイが小さく笑う。
誰もそれに否定しなかった。
服を着替えさせて、髪を整えて、水を飲ませて。
やることは多いのに、やっていることは案外たいしたことがない。
なのに、毎回少しだけ疲れる。
でも、MIUの病院嫌いは皆わかってた。
散々嫌な思いをしてきているのも、みんな知っていたから。
「俺今日は先出るね」カイが仕事用のバッグを持ち上げながら言う。
「店で寝る、ここで寝たらもう起きれなそ」
ユウキが笑う。
カイは靴を履きながら、ふと思い出したみたいに振り返った。
「終わったらなんか食べさせてね」
「食えるかわかんねえ」レンが言う。
「ゼリーでもいいから」
「わかってる」
カイはそれで安心したみたいに頷いて、それから靴を脱いでMIUのところまで戻ってきた。
「終わったら連絡して」
「……できたら」
「できなくても、レンくんにさせるから」
「なんで俺」
「できるでしょ」
「できるけど」
カイは少しだけ笑って、MIUの頭を軽く撫でた。
「いってらっしゃい」
「いってきます……」
「えらい」
「それ、犬みたい……」
カイが先に出るはずなのに、二人は逆のことを言い合っていて、さらに同じやりとりが繰り返される様子に、三人とも小さく笑った。
カイが出ていくと、部屋は一段静かになる。
「靴下」レンが言う。
「ある……」
「ほんとか?」
「ある……たぶん」
「じゃあないな」
レンは洗濯カゴの横に丸まっていた靴下を拾い上げて、ぽんと投げた。
MIUはベッドの上でそれを抱え込むみたいに受け取って、しばらく動かなかった。
「履け」
「……」
「履け」
「わかってる……」
それでも動きが鈍いのを見て、ユウキがベッドの端に腰を下ろす。
「大丈夫?」
「……きもちわるい」
「吐きそう?」
「そこまではない」
「頭おもい?」
「ちょっと」
「水もう少し飲むか」
差し出すと、今度は素直に口をつけた。
その横で、レンは何も言わずにスマホをポケットへ入れている。
鍵を取って、財布を確認して、いつも通りの顔で立っているのに、そういう日のレンは、部屋の中を少しだけ見回す回数が多い。
玄関を開ける前に、ベッドの方を見て。
靴を履く途中で、もう一度見て。
MIUがちゃんと動けるか、忘れ物がないか、
黙って全部を先回りで確認しているみたいに、そこに立っていた。
ユウキはそれを見ながら、小さく息を吐いた。
たぶん自分が行っても、何も問題はないはずだ。
でも、こういう日はレンがついている方が、少しだけ空気が安定する。
カッコつけてはいるが、誰よりもスムーズにことを進ませるやつだった。
それを言葉にしたことはなかったし、する必要もなかった。
「じゃ、行くか」
レンが言うと、MIUはようやく立ち上がった。
まだ少しふらついて、ベッド脇の丸テーブルに手をつく。
レンは何も言わず、その手首を一瞬だけ支えてから離した。
「歩けるか?」
「……うん」
「じゃあ行くぞ」
玄関で靴を履くまでにも少し時間がかかった。
「これじゃない」
「何が」
「靴」
「昨日それで歩いてただろ」
「昨日のこれは、今日のこれじゃない」
「なぞなぞみたいだな」
レンが呆れた声を出して、ユウキが吹き出す。
「病院の日の靴、あるもんな」
「ある……」
「おまえら甘やかしすぎだろ」
「今さらだろ」
結局、玄関の奥から別のスニーカーを引っ張り出して履かせることになった。
ユウキがドアを開けると、昼前の湿った空気がそのまま流れ込んでくる。
外はもうしっかり明るいのに、部屋の中だけまだ夜の続きみたいだった。
MIUは一瞬だけ足を止めた。
けれど、横にレンが立つと、そのまま何も言わず外へ出る。
その後ろ姿を見送ってから、ユウキはドア枠に片手をついたまま、少しだけ笑った。
「……毎回、出るまで長いな」
「まあな」
レンが振り返る。
「なんかあったら連絡する」
「ん」
「食えそうなら食わせて帰る」
「ん」
最後のやりとりだけ少し軽くして、レンはそのままMIUの後を追う。
ドアが閉まると、部屋の中は急に広くなったみたいに静かになった。
ついさっきまで、起こして、髪を整えて、持ち物を探して、靴を履かせていたはずなのに。
その中心だけが抜けると、生活の形だけがやけにくっきり残る。
ベッドのしわ。
使ったままのホットタオル。
丸テーブルの上からなくなった保険証ケースの跡。
ベランダに置きっぱなしの空き缶。
ユウキはしばらくその場に立ったまま、閉まったドアを見ていた。
それから、誰に言うでもなく呟く。
「……腹減ったな」
返事はない。
当たり前なのに、その一瞬だけ、少し変な感じがした。
ユウキはそのままキッチンへ戻って、冷蔵庫を開ける。
サラダチキンと、ゼリー飲料と、ヨーグルトと、つまみ。昨日の残りの缶チューハイ。
(コンビニ行こ……)
誰かが帰ってきた時に食えそうなものを、
何も考えなくても残しておく癖が、もう身体に残っていた。
――MIUとレンが部屋に戻ってきたのは、十六時を少し過ぎた頃だった。
玄関のドアが開く音で、ソファに寝転がっていたユウキが顔を上げる。
「おかえり」
先に入ってきたのはレンで、その後ろからMIUがのろのろ靴を脱ぐ。
朝よりは少しだけマシな顔をしていたけれど、代わりに、全部終わったあとのだるさがそのまま身体に残っているみたいだった。
「ただいま」
声も小さい。
ユウキはそのままキッチンへ向かい、冷蔵庫から朝のうちに入れておいたゼリー飲料を一本取り出す。
「なんか食べた?」
「食べれなかった」
「食えそう?」
「……ちょっとだけ」
「えらい」
「だから、犬みたい……」
かすれた声でそう返しながらも、ゼリーはちゃんと受け取る。
レンは鍵をいつもの場所に置いて、財布とスマホをソファの上に放った。
そのまま一度だけベッドの方を見てから、短く言う。
「今日はそんな混んでなかった」
「よかったじゃん」
「まあ」
「薬は?」
「出た」
「変わった?」
「少しだけ」
その会話の間に、MIUはもうベッドの方へ向かっていた。
カーディガンを脱ぐのも面倒そうなまま、シーツの上に膝から乗り上げて、そのまま半分倒れ込む。
「ちゃんと着替えてから寝ろよ」
「むり……」
「化粧は?」
「してない……」
「じゃあまあいいか」
レンが言って、ベッド脇に座る。
その動きがあまりに自然で、ユウキは何も言わなかった。
カイはいない。
店に入ると連絡だけ来ていて、そのまま既読もついていない。
だから今、部屋にいるのは三人だけだった。
それでも、誰かが帰ってきて、誰かが休んで、誰かが水を取る。
そういう小さい動きだけで、部屋の中はちゃんと回っていた。
「……カイくんにLINEした?」
ベッドの方から、急にMIUが言う。
「してない」ユウキが答える。
「しといて」
「なんて?」
「病院おわったって」
「自分でしてやりな」
「むり……」
その“むり”に、ユウキは少しだけ笑う。
スマホを手に取って、カイのトーク画面を開く。
病院おわった。だるそうだけど生きてる。
そう打って送ると、既読はつかないまま画面が静かに止まった。
それを見てから、ユウキは何となくベッドの方へ目をやる。
レースカーテン越しの夕方の光の中で、MIUはもう半分眠っていて、その脇にレンが座っている。
別に、特別な絵じゃない。
何度も見てきた、ただの生活の途中の景色だった。
それなのに、妙に完成して見える瞬間がある。
四人でいる時も、三人しかいない時も、二人だけの時でさえ。
この部屋の景色は、額縁か何かで切り取られたように感じられた。
ユウキはそれを、当たり前みたいに受け入れていた。
「……俺もちょっと寝るわ」
そう言って、ソファへ戻る。
「寝ろ」レンが言う。
「夕方変な時間に寝ると死ぬほどだるいよ」
ベッドから、目も開けないままMIUが言った。
「一番弱ってる人がなんか言ってる」
その返しに、かすかに笑い声が混じる。
部屋の中は静かだった。
誰かが完全に元気なわけじゃない。
誰かが全部解決できるわけでもない。
それでも、水があって、薬があって、
横になれる場所があって、
誰かが起きていて、
誰かが帰ってくる。
その程度のことで、今日も一日はちゃんと終わっていく。
ユウキはソファに背中を沈めながら、ぼんやりとレースカーテンの向こうを見た。
夕方の歌舞伎町は、夜になる前だけ少しだけ静かだ。
その静けさの中で、
ベッドの方から聞こえる小さな寝息を、
誰も不安には思わなかった。
(5話「男3人とベランダ」おわり)
第6話
「いまも残ってる」
朝の光が、出窓にかかったレースのカーテン越しに薄く滲んでいた。
夜のネオンの色を少しだけ残したまま、部屋の輪郭がゆっくり白んでいく。
ユウキはシンクの前に立っていた。
昨夜のグラスを、水で軽くすすぐ。
まだ酒の匂いが少し残っている。
スポンジを滑らせて、泡立てて、すすいで、伏せる。
その流れはもう、いちいち数えるまでもなかった。
気づけば、タオルの上に四つ並んでいた。
ユウキは少しだけ手を止める。
形も高さも少しずつ違う。
カイは細長いやつを使いたがるし、
自分はなんでもいい。
MIUは口当たりの軽い小さいグラスを好んで、
レンは無骨な厚いタンブラーばかり選んだ。
今さら説明する必要もないくらい、
それぞれの“いつもの”が、まだそこに残っていた。
やがてユウキは、一つずつ拭いて食器棚を開ける。
いつもの場所へ戻していく。
カイの細長いグラス。
自分のやつ。
MIUの小さいやつ。
最後にレンの分厚いタンブラーを持ち上げたところで、
指が少しだけ止まった。
棚の一番端。
そこだけ、ぽっかり空いている。
レンの場所だった。
ほかのところは少しずつ詰めて使っているのに、
そこだけはなぜか、ずっと空いたままだった。
ユウキは少しだけ迷ってから、
その手前にタンブラーを置いた。
棚板の端に積もった埃が、
朝の光の中で白く浮いていた。
食器棚を閉める。
その途中で、視線がワードロープに引っかかった。
黒レースのミニワンピースが、
細いハンガーにかかったまま揺れている。
洗って干したあと、
そのままになっていた。
半年以上、そこにある。
ユウキは一度も、それを片づけようとしなかった。
片づける理由も、
片づけない理由も、
特になかった。
ただ、そこにあるのが自然だった。
あれがあると、部屋のどこか一角だけ、
まだ女がいる空気になる。
ない方が変だと思うくらい、
今の二人は、まだ二人暮らしに慣れていなかった。
部屋の奥で、布団が擦れる音がした。
カイがマットレスの上で、
顔だけ出してぼんやりこっちを見ている。
虹色の髪が寝癖で跳ねていた。
片目だけ半分開いていて、
まだ人間として起ききっていない顔をしている。
「……何時」
「九時前」
「終わった」
「休みだろ」
「あ、そっか」
カイがまた目を閉じる。
そのまま三秒くらい黙ってから、また薄く目を開けた。
「みず」
ユウキは何も言わず、冷蔵庫を開ける。
ペットボトルを一本投げると、
カイは寝転んだまま片手で受け取った。
「ナイスキャッチ」
「寝起きだけ反射神経いいな」
「生きる気力が水分にだけ向く時間あるじゃん」
「知らん」
カイがキャップを開けて、
喉を鳴らして少し飲む。
その飲み方を見ながら、
ユウキは上の棚からマグカップを取り出した。
一つ。
二つ。
そこで、もう一つに手が伸びかけて止まる。
指先が、カップの縁に触れたまま静かに止まっていた。
レンが使っていた、少し重い黒いマグ。
MIUの白い小さいやつ。
カイの謎に口が広いやつ。
自分のは、端が少し欠けている。
全部まだある。
一つも捨てていない。
少ししてから、ユウキは棚を閉めた。
湯を沸かす。
カップの中にコーヒーを落とす。
お湯を注ぐと、部屋の中に少しずつ苦い匂いが広がっていく。
その匂いに引かれるみたいに、
カイがのそのそと起き上がって、
マットレスの縁に足を下ろす。
クイーンサイズのマットレスは、男二人で寝るには近すぎるのに、今さら別に狭いとも思わない。
元はもっと大きかったはずの生活を、
中途半端に縮めたまま使っている感じがした。
「さむ」
「クーラー切れば」
「気分の問題」
「便利だな、それ」
ユウキはマグカップを二つ持って、
その後ろへ行った。
出窓は、ちょうど肘を置くのにいい高さだった。
カーテンの隙間から、朝の歌舞伎町が少しだけ見える。
前の部屋にはベランダがあったけど、
この部屋ではなんとなく、ここがその代わりになっていた。
四人で使うには狭い。
二人で使うには、ちょうどよすぎる。
そのちょうどよさが、少しだけ寂しかった。
カイがカップを受け取る。
「ありがと」
一口飲んで、
すぐに顔をしかめる。
「にが」
「砂糖入れてないからな」
「えー」
そう言いながら、
カイはそのままもう一口飲んだ。
「なんで飲むんだよ」
「朝の苦いの、なんか体にいい気がする」
「気がするだけだろ」
「でもわりと好き」
その返事に、ユウキは少しだけ笑う。
丸テーブルの真ん中には、
レンのガラスの灰皿が置いたままになっている。
朝なのに、そこだけ夜の続きを引きずっているみたいだった。
カイがテーブルの手前に座って、
少し潰した空き缶を灰皿代わりに引き寄せる。
煙草に火をつける仕草が妙に手慣れていて、
ユウキは少しだけそれを見ていた。
「その缶、また使ってんのか」
「レンくんの灰皿、朝から使うと怒られそうじゃん」
「怒られねえよ」
「いや、なんか嫌だろ」
カイの指が、
無意識みたいにガラスの縁を一度だけ撫でる。
その場所は、
レンがよく煙草を置いていた位置と同じだった。
灰皿は使わないのに、
置く位置だけは覚えている。
そういうことが、この部屋には多すぎた。
ソファの向きもそうだ。
壁に背もたれをつけて置いてあって、
その先にあるマットレスが視界に入るように、
自然とそうなっている。
誰かがベッドでだらけて、
誰かがソファで煙草を吸って、
誰かが床に座って喋って、
その全部が一度に見える向き。
今はもう二人しかいないのに、
家具だけがまだ四人の視線で置かれていた。
ソファの上の壁では、
小さな『I♡歌舞伎町』のネオンが、まだぼんやり光っている。
その下の細い棚には、
UFOキャッチャーの景品や、
安っぽいキーホルダーや、
誰の趣味とも言い切れない小物が並んでいた。
よくわからないキャラクター。
小さいぬいぐるみ。
どこで取ったかも思い出せない小さいマスコット。
「これ、誰が欲しがって取ったやつだっけ」
カイが棚の方を見ながら言う。
「どれ」
「この変なネコ」
ユウキが目をやる。
「……MIUだろ」
「まぁ、だよな。なんか“顔がかわいそう”とか言ってたやつか」
「それでレンが千円くらい溶かしてた」
「しかも取れなくて、最後ユウキくんが取ったやつ」
「よく覚えてんな」
「そういうのは覚えてる」
棚の端には、アクリルのキーホルダーがいくつかぶら下がっている。
そのうちのひとつに、MIUの名前が入っていた。
誰ももう持ち歩かないのに、
そこだけは、ずっとそのままだった。
壁に貼った一枚の写真が、
朝の光とネオンの残りを半分ずつ受けている。
カイがそれを見上げて、小さく笑った。
「この日、MIUちゃん盛れてるな」
「いつもだろ」
「それはそう」
少しだけ間が空く。
それからカイが、
何でもないみたいな声で言った。
「今日さ、なんか買ってこようか」
「何を」
「わさびのかきピー」
ユウキは一瞬だけ黙って、
それから鼻で笑った。
「期間限定、もう終わってる」
「あー……そっか」
カイはそれ以上何も言わなかった。
でも、その返事の仕方が、
まるで今も誰かに買って帰るつもりみたいで、
ユウキはそれを指摘しなかった。
カイはたぶん、自分でも気づいていない。
「じゃあ別の辛いやつ探すか」
「なんでそんなに辛いの買うんだよ」
「レンくんが喜ぶから」
言ってから、カイが少しだけ止まる。
ほんの一瞬だけ、
言葉が自分の口から出た意味を、
遅れて理解したみたいな顔をした。
でも、それもすぐに消える。
「……いや、違う、クセ」
「わかってる」
ユウキはそれ以上、何も言わなかった。
ただコーヒーを飲んで、
同じように黙っていた。
部屋の中には、
まだ四人分の朝が残っていた。
洗い物の数も、
マグカップの選び方も、
ソファの向きも、
灰皿の置き場所も、
服の残り方も、
“誰に買って帰るか”の感覚も。
誰もそれを片づけようとしないまま、
今日もまた、普通に朝が来ていた。
そしてたぶん、
明日も同じように、
二人は少しだけ四人のまま起きる。
(第6話「いまも残ってる」おわり)
第7話
「みないふり」
カイがその棚に触ることは、ほとんどなかった。
洗い終わったグラスを戻す時も、
思い付きで買った変なマグカップを無理やり押し込む時も、
右奥の一角だけは、なんとなく避けていた。
そういうのは、べつに珍しいことでもない。
二人暮らしなのに、使わない場所がひとつくらいあっても……。
実際、ユウキくんもそこには何も入れなかった。
触れないまま、気づけば何ヶ月も経っていた。
レンくんの場所だったから。
そう言えば済む話だったし、
ずっとそう思っていた。
でも本当は、そんな綺麗な話じゃない。
カイは食器棚の前にしゃがみこんだまま、
空いた一角をじっと見つめた。
そこには何もない。
何も置いていない。
白い板が見えているだけなのに、そこだけ空気が違う気がする。
そこから何かが出てくるところを、何度も見た。
見たくなかったのに、見ていた。
カイは唇を噛んで、ゆっくりと立ち上がった。
でもそのまま扉を閉められず、指先だけが棚の縁に残る。
あの夜も、たしかこの辺に立っていた。
出かける前だったと思う。
部屋の中には、いつもの甘い匂いと、ヘアアイロンの熱と、酒の残り香が混ざっていた。
MIUはベッドの端に座っていた。
黒いミニワンピの肩紐が、片方だけ少し落ちかけていて、
巻いた髪の先が胸元に散っていた。
かわいかった。
ほんとうに、いつも通りにかわいかった。
だから一瞬、安心しかけた。
今日もこのまま外に出られる、って。
でも、近くで見ると、ちょっとだめだった。
頬のあたりが少しこけていて、
目の下にうっすら影があって、
笑う時だけ口元が上がるのに、目が追いついてこない。
さっきまで、しんどいって言ってたくせに。
「これ、変じゃない?」
MIUがワンピースの裾を摘んで、ベッドの上で少しだけ首を傾げる。
声は甘くて、いつも通りで、でも少しだけ力がなかった。
「全然かわいい」
カイはすぐにそう言って、近づいた。
しゃがみこんで、落ちかけていた肩紐を指で直す。
細い肩に触れた瞬間、ぞっとするくらい体が冷たかった。
「今日ちょっと顔薄いかも。チーク足す?」
「んー……まかせる」
その返事が妙に遅くて、カイは一瞬だけ手を止めた。
ほんとはその時点で、やめた方がよかった。
出かけるのも、酒を飲むのも、何もかも。
ベッドに寝かせて、今日はもう無理、って全員に言えばよかった。
でも言えなかった。
鏡越しに見たMIUが、あまりにもいつものMIUに近かったから。
あと少し整えれば、今日もちゃんと戻れる気がした。
今日だけは大丈夫だと思いたかった。
カイが頬に指先で色を足しているあいだ、
背後で食器棚の扉が開く音がした。
かた、と乾いた音。
鏡越しに、レンが見えた。
何も言わずに、いつもの顔で棚の前に立っている。
食器を取るふりみたいに自然な動きで、棚の奥に手を入れる。
その仕草を、カイは何度も見ていた。
見慣れてしまっていた、と言った方が近いかもしれない。
だから、見ないふりも上手くなっていた。
「カイくん、今日の髪かわいい。ありがと」
鏡の中で、MIUがぼんやり笑う。
「でしょ。まじで似合ってる」
カイはそう返しながら、ブラシを持つ手に少しだけ力を込めた。
レンの手元を見ないように、前髪の毛先だけに集中する。
ほんとは、わかっていた。
MIUがしんどい時ほど、レンがあそこを触ること。
そのあとだけ、少し目の奥に光が戻ること。
それを“元気”って呼んでいいわけじゃないことも。
なのに、何も言わなかった。
言えば、この時間が終わる気がしたから。
四人で出かける夜が。
ベッドの上で笑ってるMIUが。
「かわいいね」って言えば、少しだけ機嫌が戻る、その感じが。
全部。
レンが後ろを通って、ベッドのそばに腰を下ろす気配がした。
カイはそのまま、ワードロープの前に立ち尽くした。
鏡の中でしか、二人を見なかった。
見ないふりをしたままでも、わかることがある。
MIUの肩が、わずかに揺れること。
レンの声が、やけに優しいこと。
部屋の空気が、少しずつ別のものに変わっていくこと。
それでもカイは、振り返らなかった。
棚の上に転がっていたヘアオイルの蓋を閉めて、
使いかけのチークをポーチに戻して、
何本もあるブラシの並びを、意味もなく揃えた。
さっきまで自分が使っていたやつの毛先だけ、
指で何度も整えていた。
喉の奥がじわじわ熱くなって、吐きそうだった。
――やめさせなきゃ。
そう思っていた。
――でも、今じゃない。
とも思っていた。
その二つの間で立ち尽くしたまま、
結局、何もしなかった。
ベッドの方から、MIUのかすれた笑い声が一瞬だけ聞こえて、
カイは目を閉じた。
ごめん、と思った。
見て見ぬふりして、ごめん。
止めないで、ごめん。
それでも今日のMIUちゃん、かわいいなって思ってしまって、ごめん。
心の中で何度もそう言ったのに、
口から出たのは、結局どうでもいい言葉だった。
「……ユウキくん、まだシャワー?」
それだけだった。
返事は聞こえなかった。
代わりに、食器棚の扉が閉まる小さな音だけが、やけに耳に残った。
かた、と。
あの音を聞いた瞬間、
カイは自分が今、見ないまま一線を越えたことを、たぶんちゃんとわかっていた。
それでも、その夜は何事もなかったみたいに四人で外へ出た。
歌舞伎町のネオンの下で、
MIUはちゃんと笑って、
レンはいつも通りかっこつけて、
ユウキは面倒くさそうに世話を焼いて、
カイはその全部を、綺麗だと思ってしまった。
――だから今でも、あそこが見られない。
「……っ」
喉の奥が詰まって、カイは慌てて食器棚の扉を閉めた。
少し強く閉めすぎて、ガタン、と棚が揺れる。
その音に、自分でびくっと肩を跳ねさせた。
何も入っていないはずの右奥の一角が、
まだそこにあるだけで、息が浅くなる。
そこにはもう、何も残っていないはずだった。
何度見ても、白い板が見えているだけなのに。
それでもたまに、扉の向こうにまだ空気が残っている気がした。
あの夜の、かた、という小さな音ごと。
息を止めないと、見られなかった。
(第7話「みないふり」おわり)
第8話
「みやげ」
昼過ぎだった。
カイが床に座ったまま、スマホを見ていた。
「やば」
独り言みたいに言って、画面をユウキに向ける。
「これ今日までじゃん」
キッチンで煙草をくわえていたユウキが、ちらっとだけそっちを見る。
「なに」
「ドンキの割引券」
「……どこでもらった」
「この前レシートについてたやつ。五百円以上で百円引き」
「しょぼ」
「いや、使わないと損でしょ」
カイはそこで少しだけ身を乗り出した。
「行こ」
ユウキはコーヒーを一口飲んで、少しだけ考える。
本当は、行かなくても困らない。
部屋に必要なものなんて、だいたいもう揃っている。
でも休みの日の午後に、このまま何もせず部屋にいると、時間だけが濃くなる日がある。
そういうのを、二人ともなんとなく知っていた。
「……何買うんだよ」
「それを今から探しに行くんだよ」
カイが笑う。
ユウキは小さく息を吐いて、灰皿に煙草を押しつけた。
「着替えろ」
「やった」
歌舞伎町のドン・キホーテは、昼でもちゃんと変だった。
外にいるのに、店に近づくだけで夜みたいな色がする。
一階へ入った瞬間、カイが「うわ」と笑う。
「やっぱここヤベー」
海外向けの土産コーナーが、入口からもう全力だった。
でかい「日本」ロゴのTシャツ、謎に金色の扇子、寿司柄の靴下、赤富士のマグネット、なぜか侍と忍者が混ざったキーホルダー。
「誰が買うんだよこれ」ユウキが言うと、カイは棚の前でしゃがみ込んで、片手に“JAPAN”と書かれた団扇を持ち上げた。
「逆に欲しいかも」
「部屋にあってもよくない?」
「絶対いらねえ」
そう言いながら、ユウキも少しだけ口元が緩んでいた。
カイはそのまま、何歩か先へ進む。
ふと、その動きが少しだけ自然すぎて、ユウキの視線が止まった。
少し前に、金髪の男が歩いていた。
黒いパーカーに、細い脚。
背丈もなんとなく似ている。
カイはそれを見ていたわけじゃないはずなのに、
無意識みたいに、その後ろを追いかけかけていた。
「おい」
低く呼ぶと、カイが足を止める。
「どこ行くんだよ」
「あれ?」
そこで初めて我に返ったみたいに、カイが少しだけ目を瞬かせた。
「あ、いや」
金髪の背中は、そのまま別の通路へ消えていく。
カイは何でもないみたいに笑おうとして、少しだけ失敗した。
「……なんか、つられた」
「犬かよ」
「ひど」
そう言って戻ってくる。
ユウキはそれ以上何も言わなかった。
でも、戻ってきたカイの肩を、すれ違いざまに軽く指で押した。
そこにいるのを確かめるみたいに。
上の階へ行くと、一気に生活用品のフロアになる。
ネオンと雑貨の浮かれた感じが少し減って、急に「暮らし」の顔になるのが、ドンキの変なところだった。
カイは棚の間をふらふら歩きながら、急に「あ」と声を出す。
「掃除機のパック」
そのまま迷いなく棚から替えパックを取る。
ユウキは隣で、それを見た。
カイも一度は普通に手に取って、裏面を見たりしている。
でも数秒してから、ふっと動きが止まった。
「……あ」
「いらねえだろ」
「……うん」
カイが少しだけ笑う。
自分で自分に呆れたみたいな顔だった。
「前の部屋の癖だわ」
その一言が、思ったより静かに落ちる。
前の部屋は、床に髪がすぐ溜まった。
ロングヘアが一人、ブリーチ毛が二人、抜け毛が多そうなやつがもう一人いて、
掃除機をかけるたび、ちゃんと四人分の生活が吸われていった。
今の部屋はフローリングで、そこまで広くもない。
クイックルワイパーとコロコロで足りる。
わかっているのに、身体の方がまだ古い部屋を覚えている。
カイは替えパックを棚へ戻して、代わりにクイックルワイパーのシートを二袋取った。
「こっちだった」
「最初からそう言ってんだろ」
「結果オーライ」
でもその言い方は、少しだけ元気がなかった。
ヘアケア用品の棚に来た時、カイの足がぴたりと止まった。
「うわ」
「なに」
「新作出てる」
ほとんど職業病みたいな声だった。
ピンク、ラベンダー、くすんだベージュ。
やたら“うるつや”とか“水光”とか書いてあるボトルが並んでいる。
カイは一本手に取って、成分表示を眺めた。
「へえ、これシルク系なんだ」
「わかんねえ」
「香り強そうだけど、ブリーチ毛には悪くないかも」
言いながら、もう一本手に取る。
仕事で見る目にも、誰かのために選ぶ目にも見えた。
カイがキャップを軽く持ち上げて、香り見本を嗅ぐ。
「……あ」
その声が、ほんの少しだけ変わる。
「何」
「いや」
一瞬だけ黙って、それから小さく言う。
「これ、MIUちゃん好きそう」
言ってから、自分で気づいたみたいに口を閉じる。
ボトルを持つ手が少しだけ止まる。
ユウキはすぐには返さなかった。
棚の光が、やけに白く見えた。
「……美容師として?」
低く言うと、カイが顔を上げる。
「それとも、あいつ用で見てた?」
数秒だけ黙って、それから困ったみたいに笑った。
「……どっちもかも」
その返事は、冗談にも逃げきれていなかった。
ユウキは少しだけ視線を落として、棚の下段を見る。
「じゃあ買う」
「え」
「おまえが使え」
カイが吹き出す。
「俺、こんな“天使の艶髪”みたいなやつ使わないんだけど」
「似合うだろ」
「どこが?」
でもそのまま、カイは結局それをカゴに入れた。
美容師としてなのか、思い出としてなのか、二人とももう、はっきり分けなかった。
少し進んだ先で、ユウキが無言で棚からひとつ箱を取って、カイの胸元に放った。
反射で受け取ったカイが、手元を見て固まる。
「……え、何これ」
「見りゃわかるだろ」
コンドームだった。
カイは数秒黙ってから、耐えきれないみたいに吹き出した。
「いや、使うときねぇよ!」
「うるせえな、もしもの時だろ」
「何のもしも?」
「知らん。エチケット」
ユウキはそう言って、棚の方を見たまま顔を逸らす。
カイはまだ笑っていたが、そのまま箱をひっくり返して、ふと目を細めた。
「あ、これ前のやつじゃん」
「それでよかったろ」
「覚えてんのキモい~」
「サイズ合わないって言ってたの、お前だろ」
「おれ?」
「ドヤんな」
カイは箱を見たまま、少しだけ口元を上げる。
「……じゃあ、ちゃんと俺の身体のこと考えてくれてるんだ」
「言い方キモいな」
「自分で買えって言わないんだ」
「うるせえ」
「やさし」
そう言いながら、カイはそれを戻さず、カゴの端に入れた。
ユウキが一瞬だけそっちを見る。
「買うのかよ」
「だってエチケットらしいし」
「人のせいにすんな」
「じゃあユウキくんの優しさってことで」
「雑すぎ」
その箱は、他の生活用品に紛れて、やけに普通の顔でカゴの中に入っていた。
酒のコーナーでは、ユウキの方が少し機嫌がよかった。
「お」
棚の前で立ち止まる。
カイが覗き込む。
「何」
「これ」
「うわ、出た」
期間限定の缶チューハイだった。
柑橘系の、やたら派手なパッケージ。
「絶対まずいだろ」
「まずそうだから買う」
「その買い方、レンくんじゃん」
「そうかもな」
その返しがあまりに自然で、カイが少しだけ黙る。
ユウキは何でもない顔のまま、二本カゴに入れた。
その隣のつまみコーナーを見て、少しだけ目を細める。
「あ、やっぱない」
「もう終わってる?」
「だろうな」
二人とも、それ以上は何も言わなかった。
でも棚の前で立ち止まった時間だけ、少し長かった。
レジへ向かう前に、カイが小さな雑貨のワゴンで足を止めた。
透明のケースの中に、変な顔の招き猫が入ったアクリルキーホルダーだった。
シャカシャカ降るとスノードームの如くキラキラとラメが揺らめいている。
「……これなら?」
「もっといらねえ」
「かわいいって」
カイは笑って、それを手の中でひっくり返す。
レジ前で、ユウキが何気なく聞く。
「それ、どこにつけんの」
「部屋」
「雑」
「いいじゃん、みやげっぽくて」
みやげ。
その言い方に、ユウキの視線が少しだけ動く。
誰に、とは言わない。
でも二人とも、たぶん少しだけ同じことを考えていた。
帰り道、ドンキの袋がシャカシャカ鳴る。
歌舞伎町の昼は、夜ほど派手じゃないのに、やっぱりどこか眠っていない。
二人で並んで歩く。
来た時より、少しだけ静かだった。
カイが袋を持ち直しながら言う。
「……なんか普通に楽しかったな」
「ああ」
「こういうの、たまにいいかも」
「そうだな」
少しだけ間が空く。
それからカイが、何でもないみたいに続けた。
「でもさ」
ユウキが横目で見る。
「やっぱ、早く帰りたい」
「……部屋に?」
「うん」
カイは笑う。
「なんだかんだ、あそこがいちばん落ち着く」
ユウキはすぐには返さなかった。
でも、その答えを聞いて少しだけ安心した自分に、気づいていた。
「だな」
それだけ返す。
二人はそのまま、袋を提げて部屋へ戻った。
買ったものの中には、
本当に必要だったものと、
別にいらなかったものと、
なんとなく持ち帰ってしまったものが混ざっていた。
それは少しだけ、
この部屋に残っているものと似ていた。
(第8話「みやげ」おわり)
第9話
「ない方が変」
最初に言い出したのはカイだった。
「ねえ、これ、壊れてない?」
マットレスに座ったまま、エアコンのリモコンを天井へ向ける。
ピッ、と気の抜けた音がして、送風口がゆっくり開く。
でも、出てきた風はぬるかった。
ソファに座って缶を開けていたユウキが、顔も上げずに「昨日から変だった」と言う。
「昨日から?」
「うん」
「言ってよ」
「今日も動いてるから、まだいけるかと思った」
カイはエアコンを見上げたまま、信じられないみたいに笑った。
「いや、無理でしょ。ぜんぜん冷えてないじゃん」
「今日あちいしな」
「今日とかじゃなくて、部屋がずっとあったかい」
その言い方は、少しだけ変だった。
暑い、じゃなくて、あったかい。
熱が抜けきらないみたいに、部屋の奥にぬるさが残っている。
夜になっても、冷えない。
窓際のレースカーテンがわずかに揺れていた。
外の風が入ってきているはずなのに、空気は動いていないみたいだった。
ユウキは缶を丸テーブルに置いて、ようやくスマホを手に取る。
「修理呼ぶか」
「今日なおせるやつ?」
「無理。明日の昼」
「昼か……」
「おまえいるだろ」
「いるけど」
カイはそこで一度、部屋の中を見渡した。
ソファの横に積まれたビーズクッション。丸いローテーブル。窓際のマットレス。
棚のキーホルダー、出窓のぬいぐるみ。
マットレス横のワードロープ。半透明のケース。
折りたたんだタオル。服。端に押し込まれた小物。
いつもの部屋だった。
見慣れたはずの、自分たちの部屋。
でも、他人が入る前提で見ると、その全部が少しずつ落ち着かなかった。
「……やばいかも」
カイが言う。
「なにが」
「人来るの」
ユウキが顔を上げる。
「別に」
「別にじゃないって」
カイの視線の先を追って、ユウキもワードロープの方を見る。
服が見える。タオルが見える。透明ケースの輪郭が見える。
その一番下の段に、タオルを雑にかけたボックスがある。
隠しているつもりなのに、あまり隠れていない。
「……あー」ユウキが小さく言う。
「でしょ」
カイは立ち上がって、そのままワードロープの前まで行った。
タオルの端を引っ張って、もう少しだけ中が見えないように掛け直す。
でも、そうするとそこだけ妙に整って見えた。
隠している、というより、
隠しました、みたいな顔になる。
カイは少しだけ迷ってから、
端をまた雑に崩した。
その方がまだ、この部屋には馴染んだ。
中には、細かい私物がまとめて突っ込まれていた。
小さな鏡。ピルケース。使いかけのハンドクリーム。リップ。ヘアピン。
使わなくなった充電コード。細いポーチ。
その奥に、シリコンっぽい質感のものが少しだけ覗いている。
何なのか、わかる人にはわかる。
でも、ぱっと見ではただの生活用品にも見えるくらいの曖昧さだった。
カイはそこを見て、一瞬だけ手を止めた。
捨てる理由はいくらでもあったはずなのに、捨てるきっかけだけがなかった。
使う予定なんて、もちろんない。
この先もたぶん、ない。
なのに、そこにある。
「これ、どっかにやる?」カイが言う。
「どこに」
「浴室とか」
「別にそこまでしなくてよくない」
「よくなくない?」
ユウキは返事をしないまま、マットレスからワードロープを一度だけ眺める。
服の色味。タオルのかけ方。透明ケースの中身。見えるものと、見えないもの。
全部が、生活の途中みたいな顔をしていた。
「……見えたら嫌か」ユウキが言う。
「嫌っていうか」カイは言い淀む。
「なんか、説明できないじゃん」
その言葉に、ユウキは少しだけ黙った。
説明できない。
たしかにそうだった。
この部屋には、説明できないものが多すぎた。
女のいない部屋なのに、女の生活の名残がある。
男二人の部屋なのに、可愛いものが妙に多い。
使わないものが、使うみたいに置いてある。
整理されていないわけじゃない。
むしろ、一度はまとめた痕跡がある。
でも、その先へ進めなかった。
「とりあえず、箱だけどかすか」ユウキが言う。
「うん」
カイがケースを持ち上げる。
思ったより重かった。
中で小物が触れ合って、かちゃ、と乾いた音がする。
ずっとそこにあった温度を無理やり引き剥がすような感触に、カイは胸の奥がざわついて目を逸らした。
「浴室?」
「うん」
「……なんか、最悪だ」
「わかる」
ケースを一時的に浴室へ避難させる。
それだけでワードロープの一角が急に軽くなって、逆にそこに何かがあった跡だけが浮いた。
タオルを外した棚板の上に、四角く日焼けしていない部分が残っている。
ユウキがそれを見て、何も言わずに視線を逸らした。
そのあと二人がやったのは、
丸テーブルの上を一度空にして、窓辺の酒瓶と灰皿を端に寄せて、床に落ちていたライターを拾って、ソファにかけっぱなしだったシャツを片づけることくらいだった。
でも、部屋はあまり片づいたように見えなかった。
生活感が消えたというより、生活感の置き場所が少しずれただけだった。
翌日の昼前、チャイムが鳴った時、カイはもう起きていた。
ユウキはマットレスの上でまだ半分寝ている。
シーツに脚を絡めたまま、まぶしそうに片目だけ開けた。
「来た」カイが言う。
「ん……」
返事とも寝言ともつかない声を背中に聞きながら、玄関へ向かう。
「はい」
扉を開けると、作業着姿の男が一人立っていた。
工具箱を持っていて、日に焼けた腕に汗が光っている。
「エアコン修理でお伺いしましたー」
やけに普通の声だった。
カイは「どうぞ」と言って、少しだけ体をずらす。
その瞬間、部屋の中へ他人が入ってくること自体が、妙に不自然な気がした。
業者の男は靴を脱いで、いつものような動作で部屋を見た。
ただ確認するための目。
広さ。位置。動線。
でもその視線が部屋の中を一度なぞるだけで、カイはなんとなく落ち着かなくなる。
グレーのソファ。壁のネオン。窓際のマットレス。レースカーテン。冷蔵庫。ワードロープ。
全部が、見えてしまう。
「こっちです」カイがエアコンの下を指す。
「あー、ありがとうございます」
業者は脚立を広げながら、「今日はきついっすね」と笑った。
「ほんとに」カイも曖昧に笑う。
そのあいだに、ユウキがマットレスの上でゆっくり起き上がった。
寝癖のついたまま、無言でこちらを見る。
「失礼しますー」業者は軽く頭を下げる。
「……どうも」ユウキが低い声で返す。
業者はそれ以上気にせず、脚立に上った。
送風口を開ける。フィルターを外す。中を覗く。
「あー、これ結構詰まってますね」
上を向いたままの声が落ちてくる。
カイはその返事をしながら、なぜか業者の視線の行き先ばかり気になっていた。
脚立の位置からだと、ちょうどワードロープ全体が丸見えになる。
服の並び。棚の段。タオル。箱をどかした跡。
昨日よりはマシなはずだった。
でも、完璧ではない。
出窓の端には別の半透明ケースがまだ置いてある。
蓋がついててその中に何が入っているのかまでは見えない。
ただ、見えないようにしまってあるものが、ここにはあるとだけ伝わる感じだった。
業者が脚立の上で少しだけ体をずらした拍子に、出窓の端のケースに当たった。
蓋がずれて小さなポーチの角が見えた。
くすんだピンク色。
それだけなら、たぶん何でもない。
でも、その隣にある細いコードみたいなものが一瞬だけ覗いて、カイの喉がきゅっと縮む。
見えた気がした。
でも、その程度だった。
今ここで手を伸ばす方が、よほどはっきりしてしまう。
カイは動けないまま、
その一瞬だけをずっと見ていた。
「フィルター汚れですね。あと中も埃たまってるんで、掃除したらだいぶ違うと思います」
業者の声は平坦だった。
何も見ていないみたいに、普通の調子で喋る。
それが逆に嫌だった。本当に気づいていないのか、気づいた上で「客」として流しているのか、それすらわからない。
「空気、こもりやすいっすか?」業者が聞くでもなく言う。
「……そうですね。家具の位置的に、ちょっと熱溜まりやすいかもです」
カイが曖昧に返したその言葉を、ユウキはマットレスの上で聞いていた。
家具の位置。
その響きに誘われるように、ユウキはマットレスの上から部屋を見渡した。
最初からそうだったわけじゃない。その方が都合がよくて、そうなっていっただけだ。
でも今、それを他人の口から指摘されると、少しだけ息が詰まる。
「この部屋、遮るものがないから風通し自体は悪くないはずなんですけどね」業者が、背を向けたまま続けた。「これだけ見通しがいいと」
その一言に、カイは妙に反応してしまいそうになる。
見通しがいい。
たしかにそうだった。
この部屋には、死角がほとんどない。
薄いレースカーテン越しに窓辺の端まで見えるし、ソファからマットレスの凹みも見える。キッチンに立っていても、ワードロープの中まで視線が届く。
隠れようと思えば隠れられなくもないけど、本気で何かを隠すには向いていない部屋だった。
そういう部屋に、ずっと住んでいた。
業者はそれ以上何も言わず、淡々と作業を続けた。
カバーを外して、埃を拭いて、フィルターを戻して、ネジを締める。
そのあいだずっと、カイは出窓の端ばかり見ていた。
ユウキはマットレスの上で黙ったまま、業者の背中を見ている。
何も起きない時間だった。
何も起きないのに、妙に長かった。
「これでだいぶ冷えると思います」業者が脚立を降りながら言う。
「一回つけてみますね」リモコンのボタンが押される。
数秒遅れて、今度はちゃんと冷たい風が出てきた。
「あ、全然ちがう」カイが言う。
「よかったです」
それだけだった。
会計を済ませて、業者はあっさり帰っていった。
最後まで、何も聞かなかった。
何も言わなかった。
扉が閉まる。
廊下の足音が遠ざかる。
それを聞き届けてから、カイはようやく息を吐いた。
「……最悪」
「うん」ユウキが言う。
「見たかな」
「見たかも」
「だよね」
「でも、別に」
別に、の続きはなかった。
別に何だというのか、自分でもわからないみたいだった。
エアコンの冷たい風が、レースカーテンを少しだけ揺らす。
さっきまでこもっていた熱が、ようやくゆっくり抜けていく。
なのに、部屋の奥の方だけ、まだ何かが残っている感じがした。
カイはしばらくその場に立っていたけれど、やがて無言で浴室へ向かった。
戻ってきた手には、昨日避難させた白いケースがある。
ユウキがそれを見て、マットレスの上から言う。
「戻すんだ」
カイは少しだけ肩をすくめた。
「……うん」
「なんで」
「ない方が変だった」
その返事に、ユウキは何も言わなかった。
カイはケースを元の段へ戻して、上からタオルを雑に掛ける。少しだけ端が浮く。中身が完全には隠れない。
でも、その半端さの方が、この部屋にはちゃんと馴染んだ。
ついでみたいに、窓辺へ寄せていた灰皿も元に戻す。酒瓶も戻す。丸テーブルの上に、鍵とライターも戻る。
片づけたはずのものが、ひとつずつ、いつもの場所へ帰っていく。
そのたびに、部屋の輪郭が落ち着いていく。
さっきまでここにいた他人の方が、
一時的に紛れ込んだ異物だったみたいに思えた。
こっちの方が、ずっと自然だった。
そのはずなのに。
「……なんか」カイが、小さく言う。
「見られたっていうより」
そこで一度、言葉が止まる。
「自分で見ちゃった感じする」
ユウキはマットレスの端に座ったまま、しばらく黙っていた。
エアコンの音だけが静かに回っている。
冷たい風が、部屋の中を均一に撫でていく。
それでも、視線だけはどこにも散らなかった。
ワードロープ。タオルのかかったケース。見える収納。戻された物。
この部屋は、最初から何も隠せていなかったのかもしれない。
「……冷えたね」カイが言う。
「うん」
「やっと息できる」
そう言って、カイはソファへ腰を下ろした。
ユウキはエアコンの下を見上げる。
さっきまで人が立っていた場所には、もう誰もいない。
でも、見られた感じだけが、まだ薄く残っていた。
冷たい風の回る部屋で、そこだけが、いつまでも少しぬるかった。
(第9話「ない方が変」おわり)
第10話
「整える」
(ユウキくんの襟足、ちょっと限界かも。)
そう思ったのは、たぶん三日くらい前だった。
マットレスの縁に座って煙草を吸っていたユウキが、片手で後ろ髪をぐしゃぐしゃとかき上げたとき、ネオンの色が首の後ろに落ちて、そこだけ妙に長く見えた。
首筋に沿って跳ねた毛先が、なんか、だらしない。
いや、だらしないっていうか。
ユウキくんって、そういう“ちょっと崩れてる感じ”が似合う人ではあるんだけど、それにも限度がある。
その一歩手前くらいで止めておかないと、ただ生活終わってる人みたいになる。
それは違う。
「ユウキくん、襟足うざくない?」
冷蔵庫の前でしゃがみながら言うと、マットレスの方から「別に」と気のない声が返ってきた。
「うざいよ、絶対。寝癖つくと一気に終わる長さ入ってる」
「終わってんのはおまえの言い方だろ」
「耳周りも重いし」
「はいはい」
「前髪も、もうちょいで目に刺さる」
「おまえほんと人の頭ばっか見てんな」
カイは缶チューハイを一本抜いて、振り返った。
「見る仕事なんで」
ユウキが煙を吐きながら、くだらなそうに鼻で笑う。
その時点では、まあいつもの軽口で終わった。
でもそれからも、カイは気になって仕方なかった。
朝、洗面台の前で顔を洗ってる時も。
BARに出る前、ユウキがワックスもつけずに適当に髪をいじっている時も。
ソファに寝転んでスマホを見てる横顔も。
伸びてきた毛が、絶妙に邪魔だ。
ユウキは、作り込まない方がいい。
ちゃんとセットして、分け目なんか作ったらだめだ。
急に夜の男っぽくなるし、気取って見えるし、何よりつまらない。
ちょっと前髪が落ちて、耳周りだけすっきりしてて、手ぐしで崩した時に一番かっこいいくらいがいい。
そういうの、たぶん本人は一生わからない。
わからなくていいけど。
わからないまま放っておかれるのは、なんか嫌だった。
「……あ、やっぱ無理。切りたい」
風呂上がりのユウキを見て、カイは言った。
洗面台の前で、ユウキがタオルを頭にかぶせたまま雑にわしゃわしゃ拭いている。
濡れた髪が首筋に張りついて、余計に長さが目立っていた。
「は?」
「襟足」
「急になに」
「今すぐ切りたい」
「美容師の発作?」
「そう」
即答すると、ユウキが鏡越しにちらっとこっちを見る。
「いや、店行けばよくね」
「もったいないじゃん」
「何が」
「この程度なら家でいけるし」
カイはユウキの後ろに回って、濡れた襟足を指先でつまんだ。
思ったより長い。
首に張りついた毛を軽く払うと、ユウキが少しだけ肩をすくめる。
「ちょっとツーブロック寄り、試してみない?」
「やだよ、急にチャラくなんの」
「ガッツリじゃなくて。耳周りと襟足だけ軽くして、上は残すやつ」
「今の感じでも別によくね?」
「今も悪くないけど、絶対そっちのが似合う」
「なんでおまえが断言すんだよ」
「毎日見てるからですけど」
ユウキが鏡の中で、ちょっとだけ嫌そうな顔をする。
でも本気で拒否してる感じではない。
カイはそれを見逃さなかった。
「分け目作る感じにはしないし」
「……分け目?」
「うん。ユウキくん、分けると急に“やってる男”感出る」
「なんだそれ」
「悪い意味で」
「ひど」
「ちゃんとしすぎるっていうか。つまんない」
「つまんないってなんだよ」
「今くらいの、ちょっと落ちてくる感じが一番いいの」
「おまえ、ほんと人の頭にうるせえな」
「だって大事だし」
言ってから、自分でもちょっとだけ変なことを言った気がした。
けどユウキはそこを拾わず、タオルを肩にかけたまま鏡の中の自分を見ている。
「……どんくらい切るんだよ」
「任せてくれたらいい感じにする」
「その台詞、美容院で言われるやつじゃん」
「だって美容師だし」
「家だけど」
「むしろ家のが本気出る」
ユウキが、はあ、と息を吐いた。
「失敗したらどうすんの」
「しない」
「その自信どっから来んだよ」
「俺がユウキくんの頭、一番見てるから」
今度は、さっきより少しだけ長く沈黙が落ちた。
ユウキが鏡越しにカイを見る。
その視線が一瞬だけまっすぐで、カイは先に逸らした。
ユニットバスの浴槽の縁にユウキを座らせる。
シャンプーをどけて、それを置いていた場所に、霧吹きとコームとクリップとハサミを並べたら、急にそこだけ仕事場みたいになった。
「なんかいやだな、この感じ」
「何が」
「逃げられない感」
「逃げないでよ。左右ズレるから」
「もう客みたいに言うじゃん」
「気になるなら鏡持ってていいよ、見ながら」
普段は使わない、小さい卓上用鏡をユウキに手渡す。
カイはタオルを細く折って、ユウキの首に巻いた。
その上からもう一枚肩にかける。
首元に指が触れると、ユウキの喉が小さく上下した。
狭いユニットバスに、シャンプーと洗剤の匂いが混ざっている。
風呂上がりの湿気がまだ少し残っていて、鏡の端がうっすら曇っていた。
カイは霧吹きで、ユウキの髪をもう一度湿らせる。
「前向いて」
「はいはい」
コームを通すと、濡れた毛が素直に落ちた。
やっぱりちょうどいい長さを超えている。
耳の後ろも、襟足も、少しだけ余計だ。
こういう“少しだけ”が、一番気になる。
「動かないでね」
「おまえ、その言い方ほんと病院みたい」
「じゃあ喋らないで」
「横暴だな」
カイはまず、耳周りから入った。
はさみを入れるたび、細い髪がぱらぱら落ちる。
ユウキの髪は柔らかい。
でも細すぎなくて、ちょっとだけ癖がある。
この人は、寝不足とか、煙草とか、酒とか、そういうのが全部少しずつ髪に出る。
乾いてるとか、重いとか、妙にまとまりすぎてるとか。
今日のこれは、たぶん少し放っておかれた髪だ。
それを今、自分が整えている。
「ねえ」
「なに」
「ほんとに変なことすんなよ」
「しないって」
「おまえ、たまに攻めたくなる時あるじゃん」
「あるけどユウキくんにはやんないよ」
「今の一瞬安心していいのかわかんなかった」
「ユウキくんは盛るより崩した方がかっこいいし」
「言い方」
耳の上を少しだけ軽くして、サイドの内側を整える。
表面の長さは落とさず、下だけをすっきりさせると、形が急に締まった。
うん、やっぱりこっちだ。
「ちょっと顎引いて」
「ん」
ユウキが素直に従う。
そのまま襟足にハサミを入れていく。
うなじの生え際が近い。
濡れた毛を持ち上げるたび、首の後ろの皮膚が薄く見えて、変に意識しそうになるのをカイは無視した。
仕事中と同じだ。
いつもやってること。
ただ、いつもより静かで、近いだけ。
「……なんかさ」
「うん」
「そこ触られると変な感じする」
「どこ」
「襟足」
「くすぐったい?」
「それもある」
カイはちょっと笑った。
「子どもかよ」
「うるせえ」
そのまま、軽く首元の毛を払う。
ユウキがまた少し肩をすくめる。
その反応が面白くて、でも面白がりすぎると怒られそうで、カイは口元だけで笑った。
上の髪をクリップで留めて、サイドの内側を整えていく。
「思ったよりちゃんとしてんじゃん」
「何だと思ってたの」
「家だし、適当にバチバチいくのかと」
「そんな床屋みたいなことしないし」
「床屋に謝れよ」
「謝んない。俺の方がうまいし」
「言うねえ」
小さい鏡越しに目が合って、カイはちょっとだけ眉を上げる。
「ほら。今の角度とか、絶対こっちのがいい」
「まだ切ってる途中だろ」
「途中でもわかる」
「自信すご」
カイは前髪に手を伸ばして、軽くつまんだ。
重さは残す。
でも落ちすぎると野暮ったいから、ほんの少しだけ先を整える。
ユウキは額を全部出さない方がいい。
前髪が少し視界にかかるくらいが、一番ユウキらしい。
その“らしい”を、自分だけがわかっているみたいで、少し嫌だった。
でも、少しだけ気分もよかった。
「前髪切りすぎんなよ」
「切りすぎないよ。ここ命だから」
「どこが」
「全部」
「雑」
霧吹きを置いて、カイは少し離れて全体を見る。
耳周り、襟足、前髪、トップの重さ。
全部のバランスを見て、もう一度だけ細かく毛先を整える。
ユウキの頭の形はきれいだ。
だから変に作り込まなくていい。
何もしてないように見えて、ちゃんと整ってるくらいがちょうどいい。
そのちょうどよさを保つのが、自分の仕事みたいに思えてしまう。
別に頼まれてもないのに。
「よし、終わり」
「早」
「見ていいよ」
ユウキが首元のタオルを少しずらして、鏡を見る。
濡れたままでも、輪郭がすっきりして見えた。
耳周りが軽くなって、襟足の余分な重さがなくなった分、前髪の落ち方がちょうどいい。
無造作なのに、ちゃんとしてる。
ちゃんとしてるのに、やりすぎてない。
ユウキの良さが、一番出る形だ。
「……お」
「でしょ」
「なんか」
「うん」
「思ったより、いいかも」
浴槽内に落ちた髪の毛を軽く集めながら、
カイはふっと笑った。
「思ったよりって何」
「もっと攻めてくるかと思った」
「ユウキくんには攻めないって」
「それもそれで腹立つな」
ユウキが鏡に近づいて、前髪を指で少しかき上げる。
「あ、だめ」
反射で声が出た。
「は?」
「そこ崩さないで」
「うるせえな」
「今めっちゃいいから」
「自分で生きてく髪なんだけど」
「いや、そこは俺が整えたい」
「こわ」
言われてから、カイは自分でもちょっと怖いことを言った気がした。
でももう遅い。
ユウキは笑ってるのか呆れてるのかわからない顔で鏡を見て、それから首元に落ちた毛を払った。
黒い髪が、肩から何本か床に落ちる。
その量を見て、カイはなんとなく思った。
少ない。
昔より、ずっと。
落ちる髪の量も。
風呂場に残るシャンプーの減りも。
洗濯機の中にたまる服の数も。
何もかも、少なくなった。
それなのに、部屋だけがまだ時々、四人分の顔をしている。
「なに見てんの」
ユウキの声で、カイは我に返った。
「いや、別に」
「変なとこ切ってないよな」
「切ってないし」
「じゃあその顔なんだよ」
「満足してるだけ」
ユウキが立ち上がって、ユニットバス内の角にある洗面台の鏡を見ながら横髪を触っている。
「でもこれ、すぐ伸びるだろ」
「うん」
「めんどくさ」
「だから月一くらいで見せて」
「美容院かよ」
「いや、俺が見るから」
「勝手に定期メンテにすんな」
カイは軽く集めた髪を用意していたコンビニ袋にいれて、入り口を縛った。
「伸びたらすぐ言って」
「言わなくてもおまえが勝手に気づくだろ」
「まあ、それはそう」
ユウキが、鏡越しに少しだけ笑う。
その顔が、切る前よりちゃんとユウキに見えて、カイは少しだけ安心した。
シャワーの水滴がまだぽつ、ぽつ、と落ちている音がする。
狭い洗面所に二人分の湿気がこもっていて、鏡の曇りの向こうに並んだ顔がぼんやり滲んで見えた。
「シャワーで流しなよ」
「首かゆい」
「でしょ」
「おまえが切ったんだろ」
「文句言うなら次から店で有料でやるけど」
「それはだるい」
ユウキがそう言って、タオルを首から外す。
そのまま風呂場のドアを開けて、振り返りもせずに言った。
「……次も頼むわ」
一瞬、カイは何も言えなかった。
たぶんユウキにとっては、本当に何でもない一言だった。
でもそれでよかった。
「ん」
短く返して、カイは床に残った細い髪をもう一度集めた。
指先にまとわりつく黒い毛を見ながら、少しだけ息を吐く。
次がある。
それだけで、今夜は充分だった。
ユウキがシャワーで首元を流して戻ってくる。
洗面台の前で、タオルを頭にかぶったまま雑に髪を拭いている。
「ちょ、待って」
カイが反射で声をかける。
「何」
「その拭き方やめて」
「なんでだよ」
「今せっかくいい感じに切ったのに」
「まだ濡れてるだけだろ」
「濡れてる時が一番大事なんだけど」
ユウキが面倒くさそうに、タオルを頭に乗せたまま鏡越しにこっちを見る。
「美容師うるせえ」
「うるさいよ、そこは」
カイは笑いながら、ドライヤーを引っ張り出した。
「こっち来て」
「いや、自分でやる」
「絶対適当に乾かすじゃん」
「乾けば同じだろ」
「同じじゃない」
「めんどくせえな」
そう言いながらも、ユウキは完全には拒まない。
カイはその隙にドライヤーのコードを引き出して、コンセントを差し込んだ。
「座って」
「ここで?」
「うん。前向いて」
ユウキが小さく息を吐いて、さっきまで自分が座っていた浴槽の縁の水気を軽くはらって、もう一度腰を下ろす。
耳周りも、襟足も、ちゃんとすっきりしていて、濡れたままでも形がわかる。
やっぱりこっちで正解だった。
「ほら、タオル貸して、あと鏡持って」
ユウキの頭に手を伸ばして、濡れた髪を軽く押さえるように拭く。
さっきまで切っていた流れのまま、指が自然に動いた。
「……おまえ、ほんと最後までやる気だな」
「当たり前じゃん。乾かすまでがセットだから」
「歯医者みたいに言うな」
「それは知らない」
ユウキの髪は、まだ首筋のあたりが少し濡れている。
タオルでざっと水気を取ってから、カイはドライヤーのスイッチを入れた。
低い音が、狭い風呂場に広がる。
温風を後ろから当てると、ユウキの濡れた髪がふわっと持ち上がった。
「顎ちょっと引いて」
「はいはい」
「耳出して」
「注文多」
ユウキが片手で耳を押さえる。
その仕草が妙に素直で、カイは少しだけ笑った。
襟足から乾かしていく。
さっき切ったばかりの生え際に風を通すと、短くなった毛先がちゃんと首から離れていくのがわかる。
うん、やっぱりいい。
「そこ、跳ねやすいから」
「どこ」
「右の後ろ」
「わかんねえ」
「俺はわかる」
「こわ」
ユウキが眉をひそめる。
でも逃げる気はないみたいで、そのまま大人しく前を向いていた。
カイは指を入れて、根元を少し起こすように乾かしていく。
分け目がつかないように、前から後ろへ風を逃がして、トップは潰しすぎない。
こういうのは、たぶん本人には一生わからない。
でも、わからなくても困らないようにしておくのが、自分の役目みたいに思ってしまう。
「前髪、下ろしたままでいい?」
「知らね」
「いや、そこ一番大事なんだけど」
「おまえの中ではな」
「俺の中ではね」
前髪を指で持ち上げて、根元だけに風を入れる。
分け目がつかないように左右に散らしながら、落ちる位置を整えていく。
ユウキは、額を全部出さない方がいい。
少しだけ影が落ちてるくらいが、一番しっくりくる。
「……なんかさ」
「ん?」
「さっきから、ずっと楽しそうだな」
「そう?」
「そう」
「まあ、うん」
「なにその反応」
「いや、ちゃんと似合ってるから」
言うと、ユウキが少しだけ視線を上げて鏡の中でこっちを見る。
そのまま、何も言わずにまた前を向いた。
ドライヤーの音だけが、しばらく二人の間に残る。
耳の後ろ、横髪、前髪、最後に全体の形を手ぐしで整えて、カイは少し離れて見た。
濡れていた時より、ずっといい。
やりすぎてないのに、ちゃんとしてる。
その“ちょうどいい”に、ちゃんと戻っている。
「はい、終わり」
ドライヤーの音が止まる。
急に静かになった洗面所で、ユウキが自分の前髪を指で軽く触った。
「あ、だめ」
「また?」
「今の崩し方ちがう」
カイは前から手を伸ばして、ユウキの前髪を少しだけ直した。
指先で毛流れを散らして、落ちる位置を整える。
ほんの数秒のことなのに、顔が近い。
でも今さらそこに意味をつけるのも違う気がして、カイは何も言わなかった。
「……細か」
「大事なんだよ、そこ」
ユウキが、鏡の中の自分を見ている。
耳周りを触って、襟足を指でなぞって、それから前髪を軽く揺らした。
「どう?」
「……まあ」
「なにその言い方」
「いいんじゃね」
「雑」
「でも、確かに軽い」
「でしょ」
「あと、なんか」
「うん」
「ちゃんとして見える」
「でも分け目ついてないでしょ」
「そこへのこだわり強すぎるだろ」
「そこ超大事」
ユウキが呆れたみたいに笑って、それからタオルで首元を押さえる。
その横顔を見ながら、カイはなんとなく思った。
こういうことなのかもしれない。
何かを大きく変えるんじゃなくて。
伸びた髪を切って、
乾かして、
ちゃんとその人に似合う形に戻す。
そういうことでしか、少しずつ進まないものもある。
「ありがと」
ぼそっと言われて、カイは一瞬だけ瞬きをした。
「……え、今ちゃんとお礼言った?」
「言ったけど」
「珍し」
「二度と言わない」
「ごめんごめん」
ユウキが立ち上がって、洗面台の端に置いてあった煙草を取る。
その時、さっき整えた前髪がちょうどよく揺れて、カイは少しだけ満足した。
「でもこれ、すぐ伸びるんだろ」
「うん」
「だる」
「だから言ったじゃん。ちょいツーブロ寄りだと頻度は増えるって」
「おまえの趣味じゃん、それ」
「そうだよ」
「開き直んな」
「でも、ちゃんとそこチェックするから」
「……勝手にしろ」
ユウキはそう言って、風呂場を出ていく。
その言い方が、嫌がってるんじゃなくて、もう半分許してるやつなのをカイは知っていた。
洗面所の鏡には、まだ少しだけ湿気が残っている。
さっきまでそこに映っていたユウキの頭の形を思い出しながら、カイは切り落とした髪の残りを指先で払った。
次も、たぶん自分が見るんだろう。
そう思ったら、少しだけ気分がよかった。
(第10話「整える」おわり)
第11話
「写真」
ユウキの仕事先のBARのカウンターに、厚みのある茶封筒がそっと置かれた。
「やっと見つかったよ」
コートの襟を立て、外の冷気を纏ったまま店に入ってきたカメラマンのおじさんが、少し申し訳なさそうに笑う。
「君たち四人で撮ったやつ。雑誌には載せられなかったけど……なんか、捨てられなくてさ」
目尻に深い皺が寄る。
ユウキは、外気でひやりと冷え切った封筒を受け取りながら、短く頭を下げた。
「ありがとうございます。ずっと気になってました」
カイが隣から身を乗り出す。
「マジ? やっと見れんの?」
声が少しだけ弾んでいた。
4人で暮らしていた頃、このカメラマンのおじさんに1度だけ写真を撮ってもらって、歌舞伎町で暮らす、ちょっと変わった四人組として、簡単な取材までしてくれた。
おじさんは煙草に火をつけると、カウンターの端に肘をついて、ゆっくりと煙を吐いた。
「四人とも、いい顔してたよ」
それから少し考えるみたいに間を置いて、
「……MIUちゃん、あの時言ってたなぁ。
『なんか全部、夢みたい』って」
カイが「あー、言いそう」と笑う。「酔うとすぐそういうこと言うし」
「しかもその時だけ、ちょっと詩人みたいになるよな」
「わかる」
ユウキも小さく口元を緩めた。
でも、おじさんの声には、思い出話だけでは済まない何かが少しだけ混じっていた。
おじさんだけが、その夜を“昔のこと”として話している気がした。
ユウキは封筒を開けた。
中に入っていた写真は、五枚。
光沢紙の縁を指でつまんで、一枚目をカウンターに置く。
その瞬間、カイが小さく息を飲んだ。
「……うわ」
BARの中だった。
MIUがカウンターに腰かけて笑っている。
黒レースのミニワンピースの裾をつまんで、足を小さくぶらぶらさせている。
レンが後ろから肩を抱いていて、カイはそのすぐ横で、MIUの膝に手を置いたまま笑っている。
ユウキはカウンターの向こう側で、グラスに氷を入れていた。
四人の視線が、バラバラみたいでいて、結局みんなMIUの方へ集まっていた。
「これ、めっちゃいいな……」
カイの声が、少しだけ掠れる。
「MIUちゃん、かわい」
「ああ」
ユウキは短く答えた。
短い返事だったのに、それ以上足す言葉がないみたいだった。
カイが写真を指でつつく。
「このリップさ、やっぱ正解だったよな」
「また始まった」
「だってかわいくない? 黒レースに赤リップ、優勝じゃん」
「おまえ、あの日も同じこと言ってたぞ」
「え、ほんと?」
「三回くらい言ってた」
「じゃあ本当に優勝だったんだろ」
カイが得意げに言って、
少しだけ笑う。
その横で、おじさんが写真を覗き込んだ。
「この時、MIUちゃんずっと喋ってたよねぇ」
「何話してましたっけ」
カイが訊く。
「んー……“今日の自分、ちょっとかわいすぎるかも”とか」
「あはは、言いそう」
「あと、“このままポスターにして”とも言ってた」
「それも言いそう」
カイは笑っているのに、笑いながら少しだけ目を伏せた。
ユウキはその変化に気づいたけど、何も言わずに二枚目を取り出した。
二枚目。
MIUがグラスを両手で持って、カウンターの向こうのユウキを見上げている。
少し酔っていたのか、頬がやわらかく赤い。
レンの手が肩にかかっていて、その指先だけ、妙に強く見えた。
カイが写真を覗き込みながら笑う。
「レンくん、これ完全に“離す気ないです”の手じゃん」
「いつもだろ」
ユウキもそう返したけど、視線は写真から外れなかった。
「てかさ」
カイが笑いながら続ける。
「これ絶対、レンくん内心イラついてるよな。“なんでユウキの方見てんの”みたいな」
「考えすぎだろ」
「いや、あるって。レンくん、そういう独占欲わりと顔に出るし」
「出てたか?」
「出てたよ。口では“好きにしろ”みたいな顔してんのに、手だけめっちゃ正直だったじゃん」
その言い方に、ユウキは少しだけ黙った。
たしかに、そういうところはあった。
雑に見えて、いちばん離す気がなかったのはレンだった。
でも、引っかかったのはそこじゃない。
MIUだけが、カメラを見ていなかった。
笑っているのに、視線だけが少し遠い。
店の奥でも、ユウキたちでもなく。
もうその場にはない何かを、先に見ているみたいだった。
その違和感に気づいたのは一瞬だった。
でもユウキは何も言わず、親指で写真の端をなぞって、次の一枚を取り出した。
三枚目は外だった。
歌舞伎町の路地。
ネオンに照らされて、四人の輪郭が同じ色に染まっている。
MIUが真ん中で、少しだけ顎を上げて立っている。
レンが片側から肩を抱き、カイが腰に腕を回している。
ユウキは後ろからその二人ごと囲うみたいに、静かに寄り添っていた。
「うわ、これ好き」
カイが笑う。
「なんか、めっちゃ“俺ら”じゃん」
「そうだな」
「てかさ、俺とレンくん、これだけ見たら普通に治安悪いな」
「普通にじゃなくて、普通以上にな」
ユウキが珍しく少しだけ笑う。
カイもつられて笑った。
「てかユウキくんも、今見るとわりと怖いよ」
「なんでだよ」
「後ろから全部囲ってる感じ。“逃がしません”の男すぎる」
「そんなつもりねえよ」
「えー、でもちょっとあるじゃん」
「ない」
「あるって。一番まともそうな顔して、一番逃がさないタイプ」
「おまえ、人のこと何だと思ってんだよ」
「めんどくさい優しさの人」
カイが即答して、自分でちょっと笑う。
その笑いは長く続かなかった。
写真の中のMIUは、たしかに笑っていた。
なのに、その表情だけが、何度見ても少しだけ引っかかった。
楽しそうなはずなのに、どこか、もう全部知ってるみたいな顔をしていた。
カイの指が、その写真の上で止まる。
「……この時ってさ」
声が落ちる。
ユウキが目だけを向ける。
「ん?」
カイは一瞬だけ何かを言いかけて、
でもすぐに肩をすくめた。
「いや、なんでもない」
そのまま四枚目を取る。
四枚目は、四人で並んでピースしているやつだった。
MIUのピースだけ、指先が少し内側に折れている。
「これ、酔ってるな」
ユウキが言う。
「完全に酔ってる」
「このあと絶対ヒール脱いでる」
「で、レンくんに“歩けよ”って言われてる」
「言われてたな」
「で、結局ユウキくんがコンビニ寄って水買う」
「……まあな」
「で、俺がなぜかいちばん元気」
「それはいつもだろ」
「たしかに」
その会話だけで、写真の外側にあった時間まで少しずつ戻ってくる。
誰が何を言って、
誰が何を持って、
誰が最後に鍵を開けて、
誰が酔ったやつの靴を脱がせるか。
写真に写っていない部分まで、
四人分の生活が勝手に立ち上がってくる。
五枚目は、MIUがレンとカイに抱き上げられて、
ユウキがその横で呆れたみたいに笑っている写真だった。
「これ、完全に事故る五秒前じゃん」
カイが吹き出す。
「いや、実際このあと危なかっただろ」
「MIUちゃん、“もっと高く〜!”とか言ってた気がする」
「言ってた」
「やばすぎ」
どれもネオンに染まっていて、どれもちゃんと楽しそうだった。
でも、楽しそうな写真ばかり並ぶほど、逆に何かが見えなくなっていく感じがした。
カイが最後の一枚を見つめたまま、ぽつりと呟く。
「これ、ずっと欲しかったやつだ」
その言い方が、まるで今さら取り戻したものに触れてるみたいで、ユウキは返事をしなかった。代わりに、一枚ずつ丁寧に重ねていく。
写真の縁が擦れる、乾いた音。
カイがカウンターに頬杖をつく。
「これ、部屋に貼ろうぜ」
「……どこに」
「ネオンの下。あの棚の近くとか」
「ごちゃごちゃになるだろ」
「今さらだろ」
「それはそう」
ユウキは少しだけ考えて、それから小さく頷いた。
「……まあ、いいか」
写真を封筒に戻す。
その時、おじさんが灰皿に煙草を押しつけた。
「また来るよ」
柔らかい声だった。
「君たちの話、まだちゃんと聞いてない気がするから」
カイが「いつでもどうぞ」と笑って、ユウキも軽く頭を下げる。
おじさんは軽く手を振って、帰っていった。
ドアが閉まる音が、BARの中に小さく響く。
静かになったカウンターで、カイが封筒の上から写真を軽く押さえた。
「……なんかさ」
ユウキがグラスを拭く手を止める。
「何」
カイは少しだけ迷ってから、でも結局いつもの調子に戻るみたいに笑った。
「やっぱ俺ら、めっちゃ楽しそうだったな」
ユウキは少しだけ黙って、それから低く答えた。
「ああ」
その返事だけで終わった。
でも、
封筒の中に戻したはずの写真が、
まだそこに置かれたまま、
四人の形で笑い続けている気がした。
(第11話「写真」おわり)
第12話
「あの日のあと」
BARの看板明かりは、既に落ちていた。
店の中には、カウンターの手元灯だけが残っている。
いったん封筒に戻したはずの写真は、
結局またカウンターの上に広げられていた。
グラスの中の氷が、静まり返った冬の店内に、ひび割れるような音を立てて鳴る。
カイが三枚目の写真を指で軽く叩いた。
「これ、やっぱ好きだわ」
歌舞伎町の路地で、四人がネオンに染まって笑っているやつ。
MIUが真ん中で、レンとカイに挟まれて、ユウキが後ろからその輪ごと包んでいる。
「この日、めっちゃ楽しかったよな」
ユウキはグラスを回しながら、短く頷いた。
「ああ」
「俺ら、あのあとも普通に遊んでたしな」
その言葉に、ユウキの指が少しだけ止まる。
カイは気づかないふりみたいに、写真から目を離さない。
「クラブも行ったっけ?」
「……行ってない
「え?」
「その日は行ってねえ。店閉めて、そのまま飲み直して、帰った」
カイが「あー……」と小さく息を漏らす。
「そっか。クラブ行ったの、その何日かあとか」
ユウキは何も言わない。
その“何日かあと”という言い方だけで、二人の間に少し重いものが落ちた。
カイが写真の端を親指でなぞる。
「てか最近さ」
「ん?」
「この写真撮った日の前後、ちょいちょい順番わかんなくなるんだよな」
ユウキは少しだけ目を上げる。
「……わかる」
「全部近い時期だったからかな」
「それもある」
「なんか、楽しかった日だけはすぐ出てくるのに、
そのあとになると急に曖昧になる」
カイの言い方は軽いのに、そこに触れてしまった指先だけが少し震えていた。
ユウキはグラスの水滴を指で拭う。
「曖昧にしてたんだろ」
「……うん」
それ以上、二人ともそこを広げなかった。
カイがもう一度、写真を見下ろす。
「写真撮った次の日さ」
また、言いかけてやめそうな声だった。
「……MIUちゃん、ちょっと変だったよな」
ユウキはグラスを置いた。
「変っていうか」
「うん」
カイは笑えないまま、でも言葉を軽くしようとするみたいに続ける。
「なんか、ずっと夢の続きみたいな顔してた」
その表現に、ユウキの目が少しだけ伏せられる。
「あの子、たまにあっただろ。楽しそうなのに、もう半分どっか行ってるみたいな時」
「……あったな」
「でもあの日のあと、ちょっと長かった気がする」
カイがそこまで言って、口を閉じる。
BARの中は静かだった。
店の奥の製氷機の音だけが、遠くで小さく鳴っている。
ユウキが低く言う。
「次の日、レンが病院連れてった」
カイが頷く。
「点滴な」
「ああ」
「俺、あの時けっこうビビってた」
「おまえだけじゃねえよ」
ユウキの声は平坦だった。
だがその平坦さは、あの数日の記憶を何度も飲み込んできた時間の厚みを感じさせた。
カイは写真を見たまま言う。
「俺さ、あのあとユウキくんに言ったじゃん」
ユウキは黙っている。
「このままだと、ほんとにやばいかもって」
言葉が落ちる。
それは告白というより、確認みたいだった。
ユウキは少しだけ時間を置いてから、
「ああ」と返す。
カイの肩がわずかに下がる。
「レンくんに相談したのも、そのあとだよな」
「そうだな」
「俺らなりに、ちゃんと考えてたよな」
その“ちゃんと”に、カイ自身がすがっているのがわかった。
ユウキはグラスの水滴を指で拭う。
「……考えてた」
「共有にしようって決めてさ」
「隠れて何してるかわかんないより、まだ……こっちで見えてた方がマシだろって」
「夜も、なるべく一人にしないようにして。酒も、ちょっと見て。……なんか、いろいろ」
言いながら、
カイは少しずつ自分の声が苦しくなっていくのを隠せなくなる。
「ちゃんと、やろうとしてたよな」
ユウキは返事をしなかった。
それが正しかったのかどうか、今さら誰にもわからない。
でもその時は、少なくとも見捨てるつもりじゃなかった。
助けるつもりだった。そこが一番、今も二人を苦しめている。
カイがぽつりと呟く。
「俺、ずっと思ってた」
ユウキが顔を上げる。
「何を」
カイは写真の中のMIUを見たまま、小さく言った。
「俺があの時、“なんか変だな”で済ませなければよかったって」
ユウキは何も言わない。
「もっとちゃんと怖がればよかった」
カイの喉が詰まる。
「もっと大ごとにすればよかった。もっと騒げばよかった。もっと――」
「無理だろ」
ユウキが低く遮った。
カイが目を瞬かせる。
ユウキは写真から目を離さずに言う。
「俺ら、あの時点で“二人で死ぬかもしれない”なんてとこまで、考えられてなかった」
その言葉で、空気が少しだけ止まる。
カイの呼吸が浅くなる。
ユウキは続けた。
「やばいとは思ってた。でも、せいぜい倒れるとか、ODするとか、そういう方だったろ」
カイは何も言えない。
図星だった。
死ぬ。
その言葉は、当時も今も、どこか現実感がなかった。
というより、あの二人に関してだけは、
どこかで“明日も普通に生きてる”前提を捨てられなかった。
どれだけ危なっかしくても、
どれだけ変でも、
次の夜もまた部屋に戻ってきて、
同じ場所に座って、
同じように笑う気がしていた。
カイがようやく口を開く。
「……俺、まださ」
声が小さい。
「“いなくなった”って言い方してる時ある」
ユウキは黙って聞いている。
「死んだって言うと、全部そこに繋がってたみたいになるから」
「……うん」
「急に、最初から終わり決まってたみたいになるじゃん」
その言い方は、誰かに説明しているというより、
自分で自分に言い聞かせてきた理屈みたいだった。
ユウキは少しだけ息を吐いた。
「……繋がってたんだろ」
その言い方は責めるんじゃなくて、やっと自分にも向けて言えたみたいな声だった。
「写真の日も、病院の日も、相談した日も、クラブの日も」
カイの目に、じわっと涙が滲む。
ユウキの声は低いまま続く。
「全部、ちゃんと続いてた」
逃げ場のない言い方だった。
でも同時に、今までずっとバラバラにしてきた記憶を
初めて一本に繋いでしまう言い方でもあった。
カイが唇を噛む。
「……じゃあさ」
ユウキが目を向ける。
「俺ら、その途中にいたんだな」
ユウキはすぐには答えなかった。
グラスの氷が、最後に小さく音を立てる。
写真の中の四人は、何も知らないみたいに笑っている。
でも本当は、そのあとにもちゃんと時間が続いていて、その途中に、自分たちもいた。
見ていた。
一緒にいた。
止められなかった。
それを、
“いなくなった”の一言で曖昧にしていたのかもしれない。
ユウキが、
ほんの少しだけ頷く。
「ああ」
その短い返事だけで、二人とももう、
“あの日のあと”を曖昧なままにはできなかった。
写真の中では、
四人がまだ笑っている。
でもその笑顔のあとにも、ちゃんと続きがあったことを、
それが笑顔だけじゃないことも、
二人はもう、思い出の外に置いておけなかった。
(第12話「あの日のあと」おわり)
第13話
「夜食」
歌舞伎町のネオンは、帰ってきてもまだ窓の向こうで息をしていた。
部屋に入った瞬間、カイが先に靴を脱ぎ散らかして、そのままビーズクッションに沈んだ。
力が抜けたみたいに、ぐにゃりと身体が沈んでいく。
ユウキは黙ってエアコンをつけ、鍵を閉めて、コンビニの袋を丸テーブルの上に置いた。
ビニールが擦れる乾いた音だけが、妙に部屋の静けさを目立たせる。
さっきまで写真を見ていたせいか、
部屋の中のあちこちが、いつもより少しだけうるさく感じた。
寝床の位置も、ソファの向きも、壁のネオンも、
全部そのままなのに、どこかずれて見える。
カイはビーズクッションに顔を半分埋めたまま、小さく言った。
「……腹減った」
ユウキは、冷蔵庫を開けかけた手を止めて、少しだけ笑う。
「おまえ……そこはブレねえのな」
「だって腹減るもんは減るじゃん……」
「まあ、そうだけど」
カイは顔を上げずに、ぐずった声のまま続けた。
「なんか、しょっぱいの食いたい」
「おまえいつもしょっぱいのだろ」
「今日は特別しょっぱいの」
ユウキはかじかんだ指先でコンビニ袋をがさがさ漁って、中身を一つずつテーブルに出していく。
カップ麺、カップ焼きそば、おにぎり、サラダチキン、ペットボトルの水、プリンが一つ。
完全に、何も作る気のない夜のラインナップだった。
「カイ、どれ」
「やきそば」
「はいはい」
カイはようやくビーズクッションから顔を上げて、テーブルの上を見た。
「ユウキくん、また変なの買ってる」
「変なのって言うな。名店監修」
「それ、毎回だいたい期待外れじゃん」
「たまに当たりあるだろ」
「三回に一回」
「打率高い方だろ」
「いや低いよ」
カイがくすっと笑って、少しだけ空気がゆるんだ。
ユウキはメガネを指で押し上げながら、自分のカップ麺を持って立ち上がる。蓋の写真だけはうまそうな、背脂だの濃厚だの書かれた、やたら気合いの入ったやつだった。
「絶対味濃いじゃん、それ」
「夜食なんて濃くていいんだよ」
「そういうので胃やられるんだって」
「おまえにだけは言われたくない」
カイが鼻で笑って、やっと身体を起こす。
袋の中を覗き込んで、ペットボトルを取り出した。
「お湯、俺やる」
「珍しいな」
「今日は優しいので」
キッチンに立つカイの背中を、ユウキは少しだけ見ていた。
BARを出てからは、なんとなく二人とも会話の端で同じものを避けているのがわかっていた。死んだ、という言葉も。あの日、という言い方も。レンの名前も、MIUの名前も。
さっきまであんなに話していたくせに、
部屋へ戻ってくると、さらに全部言いづらくなる。
電気ケトルの湯が沸く音と、冷え切った部屋に濃く立ち上る白い湯気が、二人の視界を遮るように広がる。
カイがカップ焼きそばの蓋を半分剥がして、ソースを上に乗せたまま振り返る。
「ねえ、ユウキくん」
「ん」
「こういうのってさ」
カイはそこで一度、言葉を探すみたいに黙った。
「……何が?」
「いや、なんでもない」
そう言って、また視線を落とす。ユウキはそれ以上聞かなかった。
聞いたところで、たぶん同じところをぐるぐるするだけだとわかっていた。
カップ麺に湯を注いで、二人でぼんやり待つ数分がやけに長い。
カイはスマホをいじるでもなく、蓋を押さえたままキッチンの端に寄りかかっている。
ユウキは丸テーブルの上に割り箸を二膳置く。
無意識に、ユウキの手がもう一膳、割り箸を取り出した。
カサ、と軽い音がしてから、自分で気づく。
一瞬だけ、その手が止まった。
カイもそれを見ていたらしく、何も言わないまま目だけを向けてくる。
ユウキは無言で袋の中に戻した。
「……」
「……」
何でもない顔をしたかったのに、変に静かになってしまった。
カイがわざとらしく鼻をすすってから、少しだけ明るい声を出す。
「ユウキくんさ」
「何」
「もうボケ始まってんじゃん」
「うるせえ」
「まだ三十前でそれはだいぶやばいって」
「おまえ殴るぞ」
そのやり取りに救われるみたいに、二人とも少しだけ笑った。
でも、笑い終わったあとに残る静けさは、さっきより少しだけ重かった。
カップ麺の蓋を開ける。濃い湯気と、人工的なくらい強い匂いがふわっと立ちのぼる。
「うわ、濃」
「だろ」
「絶対夜中に食う味じゃない」
「夜中に食うからうまいんだろ」
「こちらのほうが品があるので」
「カップ焼きそばに品求めるなよ」
二人でソファとビーズクッションに分かれて座って、適当に食べ始める。
すすった音。割り箸が容器に当たる音。窓の外の、遠くの車の音。
そういう細かい生活音だけが、部屋をいつもの夜に戻そうとしていた。
けれど、どこまで食べても、完全には戻らなかった。
カイが一口食べたあと、焼きそばの蓋を裏返しながらぼそっと言う。
「……あのさ」
「ん」
「普通に帰ってきたんだよね」
ユウキは手を止めずに、少しだけ目を上げた。
「何が」
「いや……写真の中のあの日」
カイの声は、思ったより軽かった。
だから余計に、耳に残る。
「なんかさ。ああいう日も、こんな感じで部屋帰ってきて、
たぶんこういうの食ってたのかなって思って」
ユウキは、少しだけ視線を落とした。
「……食ってたかもな」
「だよね」
カイはそこで、それ以上は言わなかった。
言ったら、また戻れなくなるとわかっているみたいに。
しばらくして、カイの方が先に食べ終わった。
空になった容器をテーブルに置いて、ビーズクッションにまた沈み込む。
「風呂、先はいっていい?」
「どうぞ」
「ユウキくん、変なラーメン残さないでよ」
「残さねえよ」
「スープまで飲んで、はじめて完食です」
「うるせえ」
カイが立ち上がって、適当に服を脱ぎながら洗面所の方へ消えていく。
しばらくして、シャワーの音が遠くで鳴り始めた。
部屋にひとり分の気配だけが残る。
ユウキは最後の麺をすすって、食べ終わった容器を見下ろした。
期待していたほどではなかった。でも、まずくもなかった。
そういうところまで、なんだか今夜っぽい気がした。
容器とペットボトルをまとめて立ち上がる。
丸テーブルの上には、まだカイが雑に置いた割り箸の袋と、ソースの空袋が残っていた。
いつも通りの手付きで、それをまとめる。
シンクにカップの中に残ったスープを流して、ごみ袋にいれて、手を洗って、濡れた指先をタオルで拭く。
そのまま、なんとなくシンクの横に置いてあったグラスを戻そうとして、食器棚に手を伸ばした。
開けかけた戸の向こうに、その一角が見えた。
何も置いていない。ずっと空いたままの、小さな四角。
なのにそこだけ、妙に奥行きがあるように見えた。
ユウキの指先が、ぴたりと止まる。
シャワーの音が、遠くで続いている。
部屋の中には、自分ひとりの呼吸だけが残っていた。
その一角を見た瞬間、思い出したくもないのに、思い出してしまう夜があった。
食器棚の扉は半分開いたままで、棚の中には四人分のマグカップと、四人分の皿と、形の揃っていないグラスが詰め込まれている。
何も置かれていないのに、ずっと誰のものか決まっているみたいに、そこだけ使えなかった。
レンの場所だった。
そう思った瞬間、喉の奥が少しだけ詰まる。
たいしたことじゃないみたいに息を吸おうとして、うまく入ってこなかった。
知らないふりをしていても、あの一角に何が隠されていたのかくらいは、最初からわかっていた。
わかっていたくせに、ユウキは一度もそこを荒らさなかった。
勝手に開けて、勝手に捨てて、全部終わらせることだって、できなくはなかったはずなのに。
あの頃の自分は、たぶん本気でそうしようとは思っていなかった。
最初に気づいたのは、もっと前だった。
レンが台所に立つ時間が、妙に長い夜が増えたころ。
MIUが機嫌よく笑っている日ほど、そのあと急に落ちることがあると気づいたころ。
ODだって増えていたし、眠れないと言いながら昼まで起きてこない日もあった。
ひとつひとつは、歌舞伎町ならいくらでも見かけるような、雑な破綻の気配だった。
でも、同じ部屋で暮らしていれば、嫌でもわかる。
これはただの夜遊びじゃない。
ただの酔い方じゃない。
体調が悪いだけでも、気分の波だけでもない。
もっと、生活の芯のところに、変な火がついている。
それくらいは、ユウキにもわかっていた。
わかっていて、レンに任せた。
あいつが一番近くで見ているから。
あいつが一番MIUのことをわかっているから。
あいつが自分より、もっと深いところまで踏み込めるから。
そうやって、ずっと都合のいい理屈を並べていた。
ある夜、ユウキはひとりで帰ってきた。
レンとMIUはまだ外で、カイは風呂に入っていた。
エアコンの効きが悪い、じっとりした夜だった。
冷蔵庫の水を取ろうとして、何気なくキッチンに立ったとき、
食器棚の扉が少しだけ開いていた。
たぶん、レンが閉め忘れたんだろうと思った。
それだけのことのはずだった。
でも、そのわずかな隙間から見えた、透明なきらめきに目が止まった。
細い、ガラスの管だった。
その横に転がっているライターと、小さな、中身の透けたジップ袋。
ユウキは、少しだけ黙って、それを見ていた。
開ければ、もっとはっきり見えただろう。
何があるか、どのくらいあるか、今どこまで進んでいるのか、全部。
けれど、手を伸ばしたところで、そこで止まった。
風呂場の方から、カイの鼻歌が聞こえていた。
窓の外では、救急車の音が遠くで鳴っていた。
歌舞伎町の夜なんて、そういう音でできている。
ユウキは、そのまま扉を閉めた。
ぱたん、と軽い音がした。
その一回で、見なかったことにできると思ったわけじゃない。
ただ、その場で確定させるのが嫌だった。
もし見てしまったら、ちゃんと止めなきゃいけなくなる。
問い詰めなきゃいけなくなる。
この生活のどこかを壊さなきゃいけなくなる。
そういうのが、嫌だった。
今なら、その時点で十分終わってる。
そう言えるのに。
あの頃はまだ、壊れていない部分だけを見ていられた。
それから、ユウキは自分なりのやり方で、ずるく立ち回るようになった。
MIUがふらついている日は、なるべく台所に近づかせなかった。
「座ってろ」
「危ないからいい」
「俺がやるから」
そんなふうに、世話を焼く顔で、さりげなく動線を切った。
グラスを取るのも。
氷を取りに行くのも。
コンビニ袋を漁るのも。
レンがキッチンに立っているときは、なるべくMIUをソファかベッドの方へ引っ張った。
自分では、守っているつもりだった。
少なくとも、これ以上深くは近づけないようにしているつもりだった。
でも、本当にやるべきだったのは、そんなことじゃない。
たぶん、あの棚を開けることだった。
ちゃんと見て、ちゃんと嫌な顔をして、
「何してんだ」って言うことだった。
なのにやっていたのは、
バレないように導線を整えることだった。
それは守ることなんかじゃなくて、
生活を壊さないための、小賢しい延命だった。
その夜も、MIUはいつもより静かだった。
ソファに座って、膝を抱えて、テレビもろくに見ていなかった。
ネオンの色だけが、白い足に薄く流れている。
「MIU、なんか食べる?」
そう聞いたら、少しだけ笑って、
「んー……いらない」
とだけ言った。
その笑い方が、妙に軽かった。
軽すぎて、逆に嫌だった。
ユウキは冷蔵庫の前に立ったまま、少しだけ振り返る。
レンは台所にいない。
でも、さっきまでここにいた気配だけが残っている。
カウンターの上に、まだ触ったばかりみたいなライター。
灰皿の端に、妙に短く消された吸い殻。
水滴のついたグラス。
MIUはベッドの縁に座り直して、ぼんやりと窓の方を見ていた。
ユウキはその姿を見ながら、どうしても言えなかった。
やめろ、とも。
大丈夫か、とも。
レンに何された、とも。
聞けば、何かが始まってしまう気がした。
それを始める勇気が、自分にはなかった。
あとから帰ってきたカイが、いつも通り明るい声で何かを話していた。
レンも、何もなかったみたいに笑っていた。
その夜も、四人で同じ部屋にいた。
コンビニのつまみをつついて、酒を飲んで、
くだらない動画で笑って、
誰かが風呂に入り、誰かが髪を乾かして、
眠くなったやつからベッドへ転がっていく。
どこから見ても、いつもの夜だった。
だから余計に、ユウキはそのままにしてしまった。
大丈夫じゃないものを、
大丈夫な顔のまま、部屋に住まわせた。
自分が見て見ぬふりをしたせいで、
この部屋は少しずつ、変なものを飼い慣らしていった。
レンに直接言ったことも、一度だけある。
酔いが引いた朝方、カイもMIUもまだ寝ている時間だった。
ベランダで煙草を吸いながら、ユウキはなるべく軽い声で言った。
「……あんま無茶させんなよ」
レンは一瞬だけ黙って、それから笑った。
「誰に?」
「とぼけんなよ」
ユウキが睨むと、レンは煙を吐きながら、少しだけ肩をすくめる。
「わかってるよ」
「わかってる顔じゃねえだろ」
「ユウキ、俺のこと信用してない?」
「してるから言ってんだろ」
その返事に、レンは少しだけ目を細めた。
朝焼けにもならない薄い空の下で、
あいつの横顔だけが、やけに静かに見えた。
「……大丈夫だよ」
レンは、ほんとうに何でもないことみたいにそう言った。
「俺が一番、MIUのこと見てるから」
その一言で、ユウキはそれ以上言えなくなった。
ずるいと思った。
でも同時に、その言葉に逃げた。
あいつがそう言うなら、もう一段階踏み込まなくていい。
今すぐ壊さなくていい。
そうやって、また自分を安全圏に置いた。
安全圏なんて、最初からなかったのに。
誰も外側になんていなかった。
あの部屋にいた時点で、全員、もう同じ場所に立っていた。
見てたくせに。
知ってたくせに。
気づいてたくせに。
自分だけが、ずっと「自分はまだ引き返せる側だ」みたいな顔をしていた。
それが、一番卑怯だったのかもしれない。
シャワーの音が、ふっと現実に戻す。
ユウキは、半分開いたままの食器棚を見つめていた。
手の中のグラスは、いつのまにかぬるくなっている。
棚の中には、今はもう何もない。
とっくに空っぽだ。
なのに、あの一角だけは、
今でも何かを隠している顔をしている。
薬そのものじゃなくても。
ガラスの管や袋じゃなくても。
もっと手前の、あの時閉めた扉の音とか、
見なかったことにした一秒とか、
そういうものが、まだそこに残っている気がした。
ユウキは、ゆっくりとグラスを戻す。
二人分のマグカップの隣。
四人分の皿の下。
その一角だけには、やっぱり何も置けなかった。
扉を閉める。
ぱたん、と軽い音がした。
あの夜と同じ音だった。
ユウキはその場に立ったまま、しばらく動かなかった。
風呂場の方から、カイが何かを落としたらしい音がして、
少し遅れて「あっ、最悪」と小さく聞こえてくる。
それだけで、息が少しだけ戻る。
ユウキは目を伏せて、短く息を吐いた。
「……ばか」
誰に向けたのか、自分でもわからないまま、
そう小さく呟いて、シンクの方へ向き直った。
ちょうど風呂場の扉が開く音がした。
湯気を連れて、カイがのそのそ出てくる。
髪は半乾きで、肩にタオルを引っかけたまま、Tシャツだけ適当に着ている。
足元は裸足で、床にぺたぺたと水気の残る音を立てながら、まっすぐリビングへ戻ってきた。
「……あっつ」
気の抜けた声でそう言って、ビーズクッションに倒れ込む。
ユウキは食器を流し終えながら、振り返らずに言った。
「ちゃんと拭けよ。床びしゃびしゃ」
「あとで拭く」
「おまえの“あとで”はやんねえやつだろ」
「今日はやるって」
そう言いながら、カイはシンクの方を見ると、ユウキの食べ終わったカップ麺の容器がすでにゴミ袋にまとめられてるのを見つけた。
「それ、どうだったの」
「んー……まあまあ」
「また微妙なやつじゃん」
「期待値が高すぎた」
「名店監修ってだいたいそう」
「言うな」
ビニール袋越しに、容器に印刷された店長であろう人物の写真がこっちを笑顔で見ているようで、カイは少しだけ顔をしかめた。
「絶対しょっぱい」
「しょっぱかった」
「ほら」
「でもギリうまい」
「いちばん信用できない感想」
ユウキはシンクに流したスープの残骸を軽く片付けて振り返ると、カイはまだこちらを見ていた。
「……なに」
「一口くらい残しといてよ」
「もうねえよ」
「えー」
「おまえさっきやきそば食っただろ」
「でも気になるじゃん」
カイはそう言って、少しだけ口を尖らせる。
その顔が、あまりにもいつも通りで、ユウキは一瞬だけ言葉を失った。
ついさっきまで、自分一人であの記憶の底に沈んでいたのが嘘のようだった。
そのすぐ横で、こいつは湯気を纏ったような無防備な顔をして、どうでもいいカップ麺の味に一喜一憂している。
けれど、どうでもいい不満を並べるカイの瞳が、この部屋の静寂を恐れるように泳いでいるのが見えた。
掘り返していないふりをしているのは、カイも同じだ。
ユウキは小さく息を吐いて、振り返らず、顎で少しだけ背後のテーブルを促した。
「まだプリンあるぞ」
「え、ほんと?」
「さっきおまえが甘いのいらないって言ったやつ」
「今はいる」
「都合いいな」
「風呂上がりだから」
カイが急に少しだけ元気になって、コンビニ袋を漁り始める。
ビニールの擦れる音が、部屋の中にやけに生活っぽく響いた。
「あ、スプーン入ってない」
「嘘つけ、そこ見ろ」
「ほんとだ」
「雑すぎ」
「ユウキくんが気づく前提で生きてるから」
「やめろ、その信頼の置き方」
カイがプリンの蓋をぺりっと剥がして、ひとくち食べる。
「……うま」
「よかったな」
「風呂上がりプリン、正義」
「安い正義だな」
「こういうのでいいんだよ」
その言い方が、妙にまっすぐで、ユウキは少しだけ目を伏せた。
こういうのでいい。
ほんとうは、ずっとそれでよかったはずだった。
もっとちゃんと、ただ飯を食って、風呂に入って、夜更かしして、
そういうので終われる毎日があったはずなのに。
それを、誰も守れなかった。
「ユウキくんも食べる?」
「いらね」
「一口だけ」
「いらねえって」
「はい」
カイが勝手にスプーンを差し出してくる。
断るのも面倒で、ユウキは少しだけ身を屈めて、それを口に入れた。
「……甘」
「でしょ」
「歯溶ける」
「そこまでじゃない」
カイがけらけら笑う。
その笑い声を聞きながら、ユウキはやっと少しだけ肩の力を抜いた。
完全に戻ったわけじゃない。
何も解決していない。
この部屋の奥には、まだ触れないものがいくらでも残っている。
それでも今は、
風呂上がりの湿った空気と、安いプリンの甘さと、
どうでもいい会話だけで、少しだけ息ができた。
カイがスプーンをくわえたまま、眠そうに目を細める。
「……ねむ」
「寝ろよ」
「ドライヤーして」
「自分でやれ」
「今日だけ」
「毎回それ言うな」
カイの濡れた髪先から、まだぽたぽたと雫が落ちていた。
その音が、なぜか少しだけ安心する。
面倒で、手がかかって、ちゃんと生きている音だった。
(第13話「夜食」おわり)
第14話
「4人の部屋」
朝の光が、出窓のレースのカーテンを淡く透かしていた。
ユウキは吐き出す息が白く見えるほど冷えたキッチンに立っていた。
眠気の残るまま、コーヒーフィルターをセットして、棚からカップを取る。
一つ、二つ、三つ。
そこでもう十分なはずだった。
それでも手は、いつもの棚の位置にそのまま伸びた。
取っ手に指をかけて、カウンターへ置いてから、
ユウキはようやく一度だけ瞬きをした。
少しだけ手を止める。
何も言わないまま、そのまま湯を注いだ。
湯気が立ち上る。
砂糖をひとつ落とし、もうひとつ手に取ってから、ほんの少しだけ間が空く。
それもそのまま、カップに入れた。
ミルクも二つ出して、片方だけ開ける。
もう片方に指がかかったところで、ようやく止まる。
背後で、マットレスが軋む音がした。
カイがまだ眠そうな顔で起き上がり、前髪をかきあげながら出窓の方を見る。
「……何時」
「八時半」
「うわ、ギリギリじゃん」
そう言いながらも、
カイはすぐには立ち上がらない。
クイーンサイズのマットレスの端に座ったまま、毛布にくるまってぼんやりと部屋を見渡している。
その視線が、ソファ、丸テーブル、ビーズクッション、出窓、ワードロープの黒いワンピースを順番にかすめていく。
まるで、朝起きた時に“誰がどこにいるか”を一度確認する癖でも残っているみたいだった。
ユウキはカップを持って、丸テーブルまで運んだ。
一つ、二つ、三つ。
ふいに、カイがビーズクッションの方へ視線を向ける。誰もいないはずのクッションが、衣擦れの音を立てた気がした。
「……あ」
何もない空間を見つめたまま、カイの瞳の焦点が数秒だけ合わなくなる。
ユウキが四つ目のカップを置く音で、ようやく現実の光を捉え直して、我に返ったようにソファの横に積んであったビーズクッションを、ひとつ足で引き寄せる。
もうひとつ。
そのまま無意識みたいに、テーブルの近くへ寄せていく。
「……おまえ、それ邪魔だろ」
ユウキが言うと、
カイは「あ」と小さく笑った。
「ほんとだ」
でも、戻さない。
ピンクのやつが、ちょうどソファの前に来て止まる。
一番よく沈む、柔らかいやつだった。
カイはそれを見下ろして、少しだけ目を細める。
「これ、まだへこんでんな」
「何が」
「真ん中。ずっと同じとこ座ってたからかな」
ユウキは答えない。
言わなくても、誰のことかはわかった。
テーブルの真ん中には、レンのガラスの灰皿が置かれたまま。
カイは自分のカップを持ちながら、その灰皿を少しだけ横へずらした。
自分の缶灰皿を置くための、いつもの場所を空けるみたいに。
そこまでやってから、ようやく手が止まる。
二人とも何も言わない。ユウキは立ったまま、コーヒーを一口飲んだ。
少し甘い。
その味で、また一瞬だけ動きが鈍る。
「……甘」
カイが言う。
ユウキが目だけ向ける。
「ん?」
「今日ちょっと甘くね?」
ユウキは自分のカップを見た。
それから、テーブルの上の四つを順番に見る。
入れ慣れたはずのコーヒーを入れ間違えたのか。
それすら意識していなかったのか。
「……そうかも」
それだけ言って、それ以上は触れない。
カイがビーズクッションに腰を落としながら、眠たそうに呟いた。
「晴れてるな」
「ああ」
「……こういう朝、好きだったよな」
ユウキは返事をしない。
でも、聞こえなかったわけではなかった。
ワードロープにかかった黒レースのミニワンピースが、視界の端で揺れている。
エアコンの温風か、それともさっきカイが起き上がった拍子か。
ユウキはそっちを見て、無意識に近づいた。
裾の折れを指で伸ばす。
肩紐のねじれを直す。
そこで一度、手が止まる。
それでも、もう一度だけ布を撫でてから離した。
カイはその様子を、コーヒーを飲みながらぼんやり見ていた。
笑いもしないし、止めもしない。ただ、あまりにも見慣れた動作だった。
「それさ」
カイがぽつりと言う。
ユウキが振り返る。
「ん?」
「たまにまだ、今日それ着せるみたいな扱い方するよな」
ユウキは何も言わなかった。
否定もしない。
その沈黙が、ほとんど答えみたいだった。
食器棚を開ける。
ユウキは洗っておいたグラスを戻そうとして、ほんの少しだけ位置を直す。
手前、奥、右、左。
一つだけ、触れない場所がある。
棚の端の、ぽっかり空いた一角。
そこだけ、まだ誰のものにもなっていない。
ユウキは何も考えないふりをしたまま、自分のカップを少し手前にずらして置いた。
埋めるでもなく、空けておくでもなく。中途半端なまま。
カイが煙草を咥えて、ポケットを探る。
「あれ、ライター」
「テーブル」
言われて見れば、そこにあった。
レンの灰皿のすぐ横。
カイは火を点けて、一口吸ってから、煙を吐いた。
その仕草まで、妙に部屋に馴染んでいた。
「おまえも慣れたよな」
ユウキが何気なく言う。
「何が」
「煙草」
カイは少しだけ笑う。
「そりゃ、あんだけ隣で吸われてたらな」
そう言ってから、自分でも何を言ったか気づいたみたいに少し黙る。
“隣”が、誰の隣だったのか。それを言わなくても、部屋の方が先に知っていた。
ソファの上の壁には、小さな『I♡歌舞伎町』のネオンライト。
夜の名残みたいに、まだぼんやり光っている。
その近くの小さな棚には、UFOキャッチャーで取った景品や、安っぽいキーホルダーや、誰の趣味とも言い切れない小物が並んでいた。
棚の端には、アクリルのキーホルダーがいくつかぶら下がっている。
そのうちのひとつが、朝の光を受けて小さく揺れた。
MIUの名前が入っている。
ずっとそこにあるだけなのに、二人とももう、それを見ても立ち止まらなくなっていた。
それを残している感じより、
最初からそこにあったみたいになっている方が、少しだけ怖かった。
カイが煙を吐きながら、ぽつりと言う。
「……この部屋さ」
ユウキが振り向く。
「ん?」
「二人だと、たまに広いな」
その言い方は、寂しいとも違って、
怖いとも違って、ただ事実を言っただけみたいだった。
ユウキはしばらく何も言わず、それから低く返す。
「……そうだな」
四つ並んだカップの湯気が、ゆっくりと薄くなっていく。
誰も座っていない場所の前でも、まだ湯気だけが立っていた。
ユウキはそれを見たまま、何も言わなかった。
カイも、ビーズクッションを戻さない。
朝になるたび、
この部屋は、何度でも同じ形に戻ってしまう。
それをやっているのが部屋なのか、自分たちなのか、
もう二人にも、よくわからなかった。
(第14話「4人の部屋」おわり)
第15話
「終わらせる」
夜の真ん中だった。
隣で、シーツが擦れる音がした。
ユウキは浅い眠りの底で一度だけ眉を寄せて、それでも目を開けなかった。
寝返りだと思った。
でも、音は止まらなかった。
荒い呼吸。
喉の奥で詰まるような、短い息。
押し殺したうめき声。
ユウキは目を開けた。
暗い部屋の中で、カイが毛布を蹴り飛ばしていた。
額に汗が浮いている。
指がシーツをぐしゃぐしゃに掴んで、肩が小刻みに震えていた。
「……カイ」
返事はない。
カイの唇が、何かを言おうとしているみたいにわずかに動く。
でも、言葉にはならない。
ユウキは上体を起こした。
ピンクのネオンがカーテンの隙間から滲んで、カイの顔だけを薄く照らしている。
苦しそうだった。
それだけで、嫌な感じがした。
「おい、カイ」
肩に手を置いた瞬間、カイの体がびくっと大きく跳ねた。
「や、……」
掠れた声が漏れる。
そのまま、カイが息を吸おうとして、吸えなかったみたいに喉を詰まらせた。
胸元を掴む。
目が開く。
焦点が合っていない。
ユウキの背中に、冷たいものが走った。
「カイ、見ろ。おい」
もう一度肩を掴む。
でもカイの視線は、ユウキを通り越してどこか別のものを見ていた。
「……待っ…て……」
カイの声が震える。
「待って……やめて……」
その声で、ユウキの指先が止まった。
見ているものが違う。
今ここじゃない場所を見ている。
ユウキの脳裏に、一瞬だけ、あの部屋のネオンがよぎった。
黒いレース。
閉めきったカーテン。
呼んでも戻らなかった背中。
嫌な記憶が、身体の方から先に立ち上がってくる。
「カイ」
カイは息をうまく吐けないまま、喉の奥をひゅっと鳴らした。
そのまま身を丸める。
両腕で自分を抱えるみたいにして、膝を引き寄せる。
「MIU……ちゃ…ん……」
ユウキは息を飲んだ。
「レンくん……なんで……」
やめろ、と思った。
そっちへ行くな、と思った。
ユウキはほとんど反射でカイの身体を引き寄せた。
逃がさないみたいに、強く。
「カイ」
暴れるように腕が動いて、肩を押し返される。
うまく抱え込めない。
細いのに、変な力が入っていた。
「カイ、おい、こっち見ろ」
声が掠れる。
手が、震えていた。
背中をさすろうとしても、どこをどう触ればいいのか、一瞬わからなくなる。
それがいちばん怖かった。
あの時も、そうだった。
抱きしめて、背中をさすって、名前を呼ぶ。
それしかできなかった。
それで、足りなかった。
「……っ」
ユウキは奥歯を噛んだ。
それでも腕に力を込めて、カイを胸元に押し込む。
「カイ。ここ」
耳元で、低く言う。
「ここにいろ」
カイの呼吸はまだ浅くて、うまく合わない。
胸の中で小さく震えている。
「俺見ろ」
もう一度言う。
自分に言い聞かせるみたいに。
「ここにいる。……俺がいる」
カイの指先は固く、なにもない空間を握りしめているようだった。
その瞬間、ユウキは本気で怖くなった。
このまま、手の中から抜けていく気がした。
ユウキは言葉が出なかった。
その時、カイの指が、ユウキのシャツをぐしゃっと掴んだ。
その指にはちゃんと力がこもっているように思えた。
ユウキもそれに応えるように背中に回した腕に力を込める。
カイの喉が何度かひゅっと鳴って、
やがて、少しずつ息の速さだけが落ちていく。
まだ浅い。
でも、さっきよりはましだった。
MIUも、レンも、こんなふうに掴めれば止まったんじゃないかと、今さらみたいに思った。
もう遅いのに。
ユウキは腕を緩められなかった。
カイの額が、鎖骨のあたりに押しつけられている。
熱い。
「……ごめ、」
カイが小さく何かを言った。
「いい」
ユウキは即座に遮った。
その声が、自分でも驚くくらい強かった。
「謝んな」
それ以上何か言われたら、たぶん駄目だった。
部屋は静かだった。
カーテンの向こうで、歌舞伎町のネオンだけが薄く滲んでいる。
ユウキは眠れないまま、明け方までカイを抱きしめていた。
明け方、起き上がったカイがコンビニに行くと言って部屋を出てから、ユウキはしばらくマットレスに座ったままだった。
別に、止めるほどのことでもない。
わかっている。
わかっているのに、妙に寝つけなかった。
ユウキは煙草とライターを持って、出窓の方へ移動した。
少しだけ窓を開けると、春先の夜気が細く入り込んでくる。
外はまだネオンが明るくて、眠る気のない街みたいな顔をしていた。
窓枠に肘をついて煙草に火をつける。
そのまま何をするでもなく、ぼんやり外を見ていた。
コンビニなんて、ほんの数分だ。
それなのに、スマホを見る。
時計を見る。
煙草の灰を落とす。
また外を見る。
落ち着かない。
ユウキは舌打ちして、キッチンへ向かった。
何か飲むつもりだったのか、自分でもよくわからないまま、マグカップを出して、インスタントコーヒーを入れて、ポットの湯を注ぐ。
湯気が立つ。
それを持ってまた出窓に戻ったけれど、結局一口も飲まなかった。
窓の外ばかり見ている。
四階のこの部屋からだと、通りの端の方まで少しだけ見える。
そこを、黒いパーカー姿の男がひとり、コンビニ袋をぶら下げて歩いてくるのが見えた。
カイだった。
その瞬間、ユウキは無意識に煙草を灰皿に押しつけていた。
まだ半分以上残っていたのに、変な勢いで火を消してしまって、先が少し潰れる。
「……何してんだ、俺」
小さく漏らした声は、開けた窓の外に逃げていった。
カイはいつもの歩幅で、何事もなかったみたいに信号を渡ってくる。
それを見て、ユウキの肩からようやく少し力が抜けた。
同時に、急に手持ち無沙汰になる。
もう外を見ている理由がなくなった。
冷めかけたコーヒーを見下ろして、それから部屋を振り返る。
マットレスに戻るのも、なんか違う。
待っていたみたいで嫌だった。
だからユウキは、飲みもしないマグカップを持ったまま、とりあえずキッチンに立った。
シンクの前に立っても、やることなんて何もない。
さっき洗い物は終わってるし、シンクも別に汚れていない。
スポンジに手を伸ばしかけて、意味がなさすぎてやめた。
玄関の鍵が回る音がした。
ユウキは反射でそっちを見て、それから何でもない顔を作って、マグカップを流しの脇に置いた。
玄関が開いて、カイがコンビニ袋を片手に入ってくる。
「ただいま」
「……おかえり」
カイは靴を脱ぎながら、少しだけ目を擦った。
泣いた後みたいに赤い目をしていた。
寝不足のせいだけじゃない顔をしている。
「起きてたの」
「別に」
ユウキはキッチンに寄りかかったまま、そっけなく言う。
カイはそれ以上は何も言わず、袋から茶色い封筒を取り出した。
「原本、日光に当てると痛むからさ」
そう言って、封筒の口を開ける。
ユウキはその中身を見て、何も言わなかった。
この前もらった写真の複製だった。
カイはそのままソファに膝をついて、壁の前にしゃがみ込む。
もともと飾ってあった一枚の周りに、何枚も何枚も、丁寧に並べていく。
MIUが笑っている写真。
レンが肩を抱いている写真。
四人でネオンを浴びている写真。
少しずつ、壁が埋まっていく。
ユウキは流しの脇に置いたままのマグカップを見た。
もう、湯気はとっくに消えている。
「飲まないの」
しゃがんだまま、カイが言う。
「冷めた」
「入れ直せば」
「おまえ飲む?」
「飲む」
そう言いながらも、カイは振り返らない。
写真の位置を一枚ずつ確かめながら、少しずつ貼っていく。
端の一枚を剥がして、ほんの少しだけずらす。
また離れて見て、今度は隣を揃える。
その手つきが、妙に丁寧だった。
大事なものを壊さないようにしてるみたいで、
逆に、ユウキはぞっとした。
「めっちゃいい」
カイが、小さく笑う。
「MIUちゃんの写真ゾーンできた」
その声が、昨夜のかすれた呼吸と同じ喉から出ていることが、ユウキには怖かった。
「増やせると思ってなかったよな」
嬉しそうに振り返るでもなく、カイはそのまま写真を見ていた。
まるで、足りなかった人数が少しだけ戻ったみたいな顔をしていた。
ユウキはマグカップから手を離した。
指先が、わずかに震える。
昨夜、腕の中で震えていた身体の感触が、まだ残っていた。
カイが最後の一枚を貼り終えて、満足したみたいに立ち上がる。
その背中に、ユウキは何も考えず手を伸ばしていた。
シャツの背中を掴んで、引き寄せるみたいに抱き締める。
カイの身体が、一瞬だけ固くなる。
「え」
小さく息を呑む音。
「……ユウキくん?」
ユウキは答えなかった。
ただ、カイの後頭部に額を押しつける。
逃がさないように、でも壊さないように、腕にだけ力を入れる。
カイはしばらく黙っていた。
やがて、抵抗をやめるみたいに、ゆっくり息を吐いた。
シャツ越しの体温が、ちゃんと生きている温度だった。
それが、ひどく怖くて、少しだけ安心した。
「……さっきみたいなの」
ユウキの声が、喉の奥で引っかかる。
「やめて」
「さっき?」
「……コンビニ」
カイが、ほんの少しだけ息を止めたのがわかった。
「え、なんで」
「なんでも」
「いや、言えよ」
ユウキは目を閉じたまま、腕の力を少しだけ強める。
「……勝手にいなくならないで」
沈黙が落ちた。
部屋の中が、妙に静かだった。
冷蔵庫の低い音と、どこか遠くのサイレンだけが、かすかに聞こえる。
「出るなら言って」
ユウキは絞り出すみたいに続ける。
「ちゃんと」
カイが、腕の中で少しだけ肩を揺らした。
「……言ったじゃん」
「そういうんじゃなくて」
「どういうの」
「……わかるだろ」
そこで一度、言葉が途切れる。
ユウキは目を閉じたまま、息を整えるみたいに、カイの肩へ額を押しつけた。
「……カイを」
声が、喉の奥で引っかかった。
「こうしたの、俺かもしれない」
カイの肩が、わずかに揺れた。
「昨日、見てて思った」
ユウキは低く言う。
「俺ら、止まってるだけじゃなかった」
一度、言葉が切れる。
「このままだと」
腕の中の体温が、シャツ越しに伝わる。
死んだ二人じゃなくて、今ここにいる一人の熱だった。
「……おまえまで、いなくなる気がした」
カイが、息を止める。
自分にまわるユウキの腕の、シャツの裾を掴む。
しばらくしてから、カイが小さく言った。
「……うん」
それだけだった。
でも、それで足りた。
ユウキは腕の力を少しだけ強めて、それからようやく息を吐いた。
壁の方を見なくてもわかった。
四人が、まだそこで笑っている。
「……俺らさ」
ユウキが低く言う。
「残してるだけのつもりだった」
言葉を選ぶみたいに、一度だけ黙る。
「でも、残してるっていうより」
カイは振り返らないまま、じっと聞いていた。
「……戻そうとしてたのかも」
その声は責めるんじゃなくて、
やっと自分にも向けて言えたみたいな声だった。
「でも」
カイの肩に、額を押しつけたまま続ける。
「このままだと、おまえまで……」
カイの指先に、少しだけ力が入る。
ユウキはそこで初めて、ちゃんと息を吸った。
「……もう、終わりにしよう」
長い沈黙のあとで、
カイが振り返らないまま、頷いた。
「……うん」
それから少しして、カイがぽつりと呟く。
「それ、ルールにする?」
「何を」
「今の」
「……何の」
「俺らの」
ユウキは、少しだけ眉を寄せた。
「ルールって」
「勝手にいなくならない、とか」
「軽く言うなよ」
「軽くしてないと無理なんだけど」
その言い方が妙に正直で、ユウキは返事に詰まった。
腕をほどく気には、まだなれない。
「……じゃあ、出る時は言え」
「うん」
「夜中でも」
「うん」
「コンビニでも」
「わかった」
カイが、小さく笑う。
「じゃあ一個目ね」
「何が」
「俺らのルール」
壁いっぱいの写真の前で、二人はしばらくそのまま立っていた。
カイの体温は、ちゃんと今のものだった。
それでも背中の向こうでは、四人がまだ笑っている。
ユウキは腕をほどかなかった。
(第15話「終わらせる」おわり)
第16話
「二人分」
朝の光が、出窓のレース越しに白く滲んでいた。
ユウキはキッチンに立っていた。
棚からマグカップを取り出して、
いつものみたいにカウンターへ並べる。
一つ。
二つ。
三つ。
そこで、手が止まった。
指先が、四つ目の取っ手に触れたまま動かない。
少ししてから、ユウキはそのカップを棚へ戻した。
「……もう、淹れなくていいか」
声にすると、思ったより静かだった。
マットレスの方で布団が擦れる音がした。
カイがゆっくり起き上がる。
目が赤い。
寝不足の顔のまま、しばらくぼんやりユウキを見ていた。
それから、何も言わずに立ち上がる。
二人とも、しばらく無言だった。
ユウキは冷蔵庫を開けて、一番上の棚に手を伸ばして、小さな仕切りケースを下ろした。
透明な蓋の端に、油性ペンで「MIU」と書いてある。
カイがそれを見て、少しだけ目を細める。
「……それ、」
言いかけて、やめる。
代わりに、ケースの蓋を指先で一度だけ押した。
「捨てなくていいよ」
小さく言う。
「しまっとこ」
ユウキは頷いた。
ケースを閉じて、棚のいちばん奥へそっと押し込む。
見えなくなってからも、指だけがしばらくそこに残った。
冷蔵庫の向かいの壁のフックには、MIUのキーホルダーがまだ掛かったままだった。
歌舞伎町の安っぽいお土産みたいなアクリルのやつで、
小さなラメが朝の光を拾っている。
カイがそれに気づいて、何も言わずに指先で揺らした。
しゃら、と軽い音が鳴る。
外そうとはしなかった。
次に、食器棚の端を見る。
そこだけ、ずっと空いていた。
レンの場所だった。
「……ここは、まだいいか」
カイが小さく言う。
ユウキは少しだけ間を置いて、頷いた。
「ああ」
二人は食器棚の扉を閉じた。
カイはテーブルの真ん中に置かれたガラスの灰皿を持ち上げた。
レンのだった。
両手で持つと、思っていたより重い。
朝も夜も、ここにあるのが当たり前になりすぎていた。
引き出しを開ける。
でも、そのまま少しだけ止まる。
しまったら、もう次から、
「そこにあるから使う」ことができなくなる気がした。
カイは一度だけ目を伏せて、それから静かに中へ入れた。
最後に、縁を親指でひと撫でする。
引き出しを閉める音が、やけに小さく響いた。
ワードロープには、黒いレースのミニワンピースがまだ掛かったままだった。
ユウキがそれを見上げると、隣に来たカイが裾をつまむ。
「……これも」
「うん」
ユウキは少しだけ笑った。
「でも、捨てなくていい」
カイも笑う。
「わかってる」
二人で丁寧に畳んで、ワードロープの奥へしまう。
ハンガーだけが残った。
壁の写真は、そのままにした。
四人で笑っている写真。
ネオンの下で、少し寄りすぎなくらいくっついている写真。
誰かが誰かを抱き上げて、事故る5秒前みたいな写真。
それだけは、外さなかった。
カイはソファの横に積んであったビーズクッションの、ピンクのを持ち上げてワードロープの上段に置いた。
三つ重なっていた山が、二つになる。
少しだけ、部屋の見通しがよくなった。
壁際の『I♡歌舞伎町』のネオンライトは、昼間なのにぼんやり点いたままだった。
カイが足を止める。
ユウキもつられてそっちを見る。
前までは、昼も夜も自然にそれを点けっぱなしにしていた。
誰が最初に光らせたかも、もう思い出せないくらい当たり前に部屋を照らしていた。
カイが小さく言う。
「……これ、どうする?」
ユウキは少しだけ考えてから、壁の下にしゃがみ込んだ。
配線をたどって、コンセントを抜く。
ぷつ、と小さく音がして、
ピンクの文字が静かに消えた。
昼の光が、初めてちゃんと部屋の輪郭を見せた気がした。
でも、壁からは外さなかった。
カイは何も言わず、それを見ていた。
ユウキは出窓へ行って、レースのカーテンを少しだけ引いた。
昼の光が、前よりまっすぐ床へ落ちる。
二人で出窓に腰を下ろした。
そこに丸テーブルがなくても、もう不自然じゃなかった。
コーヒーは淹れなかった。
代わりに、水を入れたグラスを二つだけ持ってくる。
カイがそれを見て、小さく笑った。
「寂しいな」
ユウキも笑う。
「ああ」
それから少し間を置いて、
「……でも、たぶんこれでいい」
カイは返事をしなかった。
ただ、肩を寄せる。
触れたところが、あたたかかった。
夜になる前に、二人はマットレスへ戻った。
クイーンサイズのマットレスは、前より少し広く感じた。
ユウキが横になると、カイが当たり前みたいに隣へ滑り込んでくる。
掛け布団の中で、二人の足先が少しだけぶつかった。
誰もいなくなっていないみたいな夜を、
二人で長く続けすぎていた。
カイの呼吸が、ゆっくり落ち着いていく。
やがて、寝息になる。
ユウキは目を閉じたまま、その音を聞いていた。
もう、他の寝息はしない。
でも、今夜この部屋に必要なのは、
もうそれだけだった。
ユウキは隣のぬくもりに背中を預けたまま、
ゆっくり眠りに落ちていった。
(第16話「二人分」おわり)
第17話
「右奥の一角」
皿が、もう入らなかった。
ユウキが洗い終わった平皿を二枚重ねたまま食器棚の前で止まり、
「……入んねえ」と低く言った。
シンクにはまだ泡の残ったグラスが二つと、
コンビニのサラダを分けた小鉢と、
カイが買ってきたよくわからない猫柄のマグカップが置きっぱなしになっている。
カイはソファの背に肘をかけたまま、スマホを見ていた顔を上げた。
「下の棚、無理?」
「鍋で埋まってる」
「あー」
それだけ言って、カイはまた視線を落とした。
でも指はスマホを触っていなかった。
ユウキは皿を持ったまま、少しだけ食器棚の中を見た。
二人分のマグ。
四人分の皿。
揃っていないグラス。
そして、右奥の一角。
そこだけ、今もぽっかり空いている。
何も置いていない。
何もないのに、そこだけ使えない。
ユウキはしばらく黙っていたが、
やがて皿を腕に抱えたまま言った。
「……ここ、使うか」
声にした瞬間、自分で少しだけ嫌になった。
言っただけで、空気が一段冷えた気がした。
カイがゆっくり顔を上げる。
「……そこ?」
「入んねえし」
「……うん」
返事はしたくせに、カイは動かなかった。
ユウキもそのまま立っていた。
皿を持った腕がだるくなってきてるのに、なぜかすぐに手が出ない。
沈黙が、妙に長かった。
窓の外では歌舞伎町のネオンがぼやけていて、換気扇の低い音と、隙間風の鳴る音だけが、冷え切ったキッチンの上を回っていた。
「……俺やる」
先に立ったのはカイだった。
ソファから立ち上がって、スリッパを引きずるみたいな足音でキッチンまで来る。
でも食器棚の前まで来たところで、ぴたりと止まった。
ユウキが抱えていた皿を、無言でシンク脇に置く。
二人並んで、開いたままの棚を見た。
右奥の一角。
白い板が見えているだけの、何もない場所。
カイが指先を伸ばして、棚の縁に触れる。
その瞬間、小さく息を呑んだのがわかった。
「……まだ無理なら、いい」
ユウキがそう言うと、カイはすぐに首を振った。
「いや……無理っていうか」
言いながら、笑おうとした口元がうまく上がらない。
「……ここだけ、ずっと時間止まってるみたいで、きもい」
その言い方があまりにもそのままで、
ユウキは少しだけ目を伏せた。
「……わかる」
カイの指が、棚の奥にゆっくり滑っていく。
掃除をしていないわけじゃないのに、奥の角だけ少しざらついて見えた。
やがて、爪先が何かに引っかかった。
カイの肩がぴくっと揺れる。
「……なんかある」
声が、少しだけ掠れていた。
「取れ」
「わかってる」
言いながらも、指先がためらっているのが見えた。
それでもカイは、棚の奥に二本指を差し込んで、
小さなものをひっかけるみたいにして引き出した。
キーホルダーにつけるチェーンだった。
ほんの小さなものだった。
カイはそれをつまんだまま、しばらく動かなかった。
「……こんだけ?」
ぽつりと落ちた声は、安堵にも、絶望にも聞こえた。
ユウキは棚の中をのぞきこんで、指で奥をなぞる。
白い板の隅に、もうほとんど消えた跡がうっすら残っている。
それだけだった。
なのに、息が詰まる。
「……何もないじゃん」
カイが笑った。
笑ったというより、口の端だけが引きつった。
「何もないのにさ」
そのまま、つまんでいたチェーンを見下ろして、
カイは急に喋るのをやめた。
指が、少し震えていた。
ユウキは棚の中に手を入れたまま、低く言う。
「俺がいる時は、MIUをここに近づけなかった」
カイは顔を上げない。
「……うん」
「絶対台所立たせなかった」
「うん」
「それで足りると思ってた」
最後の一言だけ、少し声が掠れた。
カイはそこで、やっとチェーンを握りつぶすみたいに指を閉じた。
「俺は」
一度そこで止まる。
喉が詰まったみたいに、次の言葉が出てこない。
「……見てた」
ユウキは何も言わなかった。
「見てたし、わかってたし、やめた方がいいって、ずっと思ってた」
声がどんどん小さくなる。
「でも……止めたら終わる気がして」
その言葉だけで、何のことを言っているのか、説明なんていらなかった。
四人でいる夜。
MIUが笑う時間。
レンが機嫌よくしている空気。
自分たちがまだ“いつも通り”の顔をできる時間。
全部。
カイの目から、ぽたりと一滴落ちた。
手の中の銀色のチェーンに、しずくが落ちて、少しだけ光る。
「……ごめん」
誰に向けたのかもわからない声だった。
「ほんと、最低だよね」
「そういう話じゃねえよ」
ユウキは即答したが、
その声も少しだけ固かった。
最低かどうかなんて、もうどうでもよかった。
二人とも、ちゃんと知っていた。
知っていて、それでも終わらせられなかった。
それだけのことだった。
ユウキは棚の奥から手を引き抜いて、
シンク脇に置いてあった小さな紙箱を取った。
前にスマホの充電ケーブルが入っていたやつで、今は空だった。
それをカイの前に差し出す。
「入れろ」
カイが濡れた目で箱を見る。
「……捨てる?」
ユウキは少しだけ考えて、首を振った。
「今は、まだいい」
それは優しさというより、
まだ完全には切れないだけの、情けない判断だった。
でも、今の二人にはそれが限界だった。
カイは黙って頷いて、
小さなチェーンを、そっと箱の中に落とした。
音は、ほとんどしなかった。
それから二人で棚の奥をもう一度見た。
何もない。
ほんとうに、何もない。
ただ、そこにずっと置いていたものだけが、
ようやく名前を持った気がした。
思い出、だと思っていた。
追悼、みたいなものだと。
でもたぶん、ずっと違った。
ユウキは一枚目の皿を持ち上げて、
その右奥の一角の手前に置いた。
ぴたりとはまるはずなのに、なぜか少しだけ迷って、
結局、皿は一段手前に戻した。
奥には置かなかった。
カイがその動きを見て、少しだけ息を吐く。
「……そこ、まだ空けとくんだ」
「いや」
ユウキは短く言って、棚の中のマグカップを少しずつずらした。
グラスを並べ替えて、今まで使っていた場所を少しだけ詰める。
右奥の一角には、最後まで何も置かなかった。
でも、それはもう
“レンのため”に空ける場所ではなかった。
「……ここは、使わねえ」
ユウキがそう言うと、カイが静かに頷いた。
「うん」
「空けとく必要も、たぶんねえけど」
「……うん」
「でも、ここじゃない」
その言い方に、カイはまた小さく頷いた。
二人とも、それ以上は言わなかった。
ユウキが食器棚の扉に手をかける。
一瞬だけ止まってから、そのまま静かに閉めた。
乾いた音が、夜のキッチンに小さく響く。
それはもう、誰かの場所を閉じる音じゃなかった。
(第17話「右奥の一角」おわり)
第18話
「これから」
夜中、マットレスの上でユウキが煙草を探している音で、カイはうっすら目を開けた。
暗い部屋の中で、マットレスがわずかに沈む。
「……何してんの」
眠ったままみたいな声で言うと、ユウキが「起きてたのかよ」と小さく返した。
「起きた」
「悪い」
「何」
「煙草」
そう言いながら、ユウキがマットレス脇のローテーブルを探る気配がする。
カイは枕に顔を半分埋めたまま、ぼんやりその背中を見た。
「ここで?」
「一本だけ」
「だめ」
間髪入れずに言うと、ユウキが少しだけ振り返る。
「なんで」
「危ないから」
「まだ火ぃつけてないし」
「つける気だったじゃん」
「……まあ」
認めるんだ、と思って、カイは少しだけ笑った。
ユウキはライターを指先で弄びながら、マットレスの端に座っている。
煙草を吸いたいだけなのか、なんとなく眠れないだけなのか、その両方なのか、見ていればなんとなくわかった。
今のユウキは、昔みたいに煙草を吸いにひとりでふらっと外へ出たりしない。
でも、その代わりにこうして、寝床の上で雑に済ませようとする。
そういうところが、ちょっとだけ腹立たしくて、少しだけ安心する。
「それも禁止な」
カイが言うと、ユウキが露骨に嫌そうな顔をした。
「それもって何だよ」
「ルール」
「また?」
「また」
ユウキは呆れたみたいに息を吐いて、手の中の煙草を見下ろした。
「増えてくな」
「増やしてんのユウキくんでしょ」
そう言うと、ユウキが鼻で笑う。
「厳し」
「生きてほしいから」
言ってから、カイは少しだけ目を伏せた。
思ったより、そのままの言葉だった。
部屋が、ひと呼吸ぶんだけ静かになる。
ユウキも何も言わなかった。
ただ、ライターをテーブルに置く音だけがした。
しばらくしてから、低い声が落ちる。
「……じゃあ、二個目か」
カイは枕から顔だけ出した。
「何が」
「俺らのルール」
「そう」
「ベッドで煙草禁止」
「うん」
「だる」
「守って」
ユウキはしばらく黙っていたが、やがて煙草を箱に戻した。
「はいはい」
その返事が少しだけ素直で、カイは目を細める。
ユウキがマットレスに戻ってきて、マットレスがまた少し沈んだ。
暗い部屋の中、互いの寝返りの気配だけが近い。
少しして、ユウキがぼそっと言う。
「……おまえもな」
「何が」
「しんどい時、黙るなよ」
カイは一瞬だけ黙った。
天井の見えない暗さを見たまま、小さく息を吐く。
「それ三個目?」
「まだ二個目の途中」
「なにそれ」
「知らね」
ユウキの声が、少しだけ眠そうに緩んでいた。
カイは、その音を聞きながら目を閉じる。
ルールなんて、たぶん昔の自分たちなら笑っていた。
そういうのを決めないまま、
好きなように崩れていけることの方が
ずっと綺麗だと思っていた気がする。
でも今は、
綺麗かどうかより、
朝までちゃんとここにいる方が大事だった。
勝手にいなくならないこと。
マットレスの上で煙草を吸わないこと。
しんどい時は、ちゃんと言うこと。
そういう小さい約束を、二人分の生活の中に増やしていく。
四人でいた頃には、たぶんいらなかった約束だった。
ユウキは仰向けになったまま、薄く開いた窓から入ってくる夜気を感じていた。
歌舞伎町の深夜の喧騒に混じって、冬の硬い空気がようやくゆるみ始め、どこか湿った春の近い匂いがする。
「……なぁ、カイ」
ユウキが天井を見つめたまま、低く声を出す。
「ん?」
隣でシーツに顔を埋めていたカイが、寝返りを打ってユウキの方を向いた。暗がりの中で、カイの瞳がわずかに光を反射している。
「今年、花見行こうか」
その言葉に、カイの呼吸が一瞬だけ止まった。
ユウキの脳裏には、かつての部屋の狭いベランダが浮かんでいた。桜の木なんて一本も見えないのに、室外機の熱に吹かれながら四人で飲んだ、あの夜 。来年行けばいい。あの時はそう思っていた。
「……どこに?」
カイの声が、少しだけ震えていた。
「花園神社。あそこなら、近いだろ」
「……いいよ。人多いかな」
「夜なら、少しはマシだろ」
「そっか。……じゃあ、今度は桜の下で飲もうね」
カイはそれ以上何も言わず、また枕に顔を沈めた。
ユウキは、一度起き上がり窓を閉め、再び横になった。
隣にいるカイの体温を、シーツ越しに確かめるように目を閉じる。
しばらくして、隣の呼吸がゆっくり深くなる。
目を閉じたまま、その音に合わせるみたいに息を吐いた。
今はただ、隣にいるひとりがちゃんと眠っていて、
自分もその隣で眠れる。
それだけで、今夜はたぶん、もう朝までいける気がした。
(歌舞伎町残影ポリ・完)
この夜にいた。
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